新フィールドノート
−その96−



横浜市続木区
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 九月十八日、横浜の姉の告別式に出席した。
 姉は癌で手術をし、その後遺症で記憶がかなり怪しくなっていたという。八十四歳であった。
 たまたま甥が九月八日に名古屋大学で開催されたシンポジウムに出席した。彼は、そのあと私の研究室に立ち寄った。彼が名古屋に来たのは始めてであった。名古屋駅まで見送りがてら、駅の近くの居酒屋に入った。
 甥は腹違いの一番上の姉の子で、姉は早くに家を出ていたせいもあって、交流がほとんどなく、彼とじっくり話をするのは始めてである。甥の性はどういうわけか私と同じ広木の性である。甥の兄、これもまた甥ではあるが、こちらは私より二つも年が上で、私が叔父という感じがしない。兄の方は田上という性である。そして死んだ姉の性はまた異なるのだ。だが、私はそういうことには頓着しない。
 目の前にいる甥は、都立大学を出て都庁に勤めた。工学部の出で、最初は地下鉄の工事関係、後に河川や海岸の建設関係にまわり、今や都の第四建設事務所の所長だという。私より八っつも年下である。あの気のやさしかった甥が東京都の所長を勤めているのが不思議に感じられた。話の中で何気なく母親が癌で手術をしたことに触れた。でもそれ以上深くは立ち入らなかった。居酒屋を出るとき、高給取りですからと彼は勘定を払った。叔父としては、恥ずかしかった。
 甥は三宅島の復旧工事を手がけたという。二千年の爆発以来、島民は今年の二月まで避難していたが、泥流の発生がひどく、災害も頻発しているという噂は聞いていた。通常、私は建設工事には批判的な場合が多いが、三宅島では緊急の事態であることは察しがついた。私が三宅島もフィールドの一つであることを話すと、かつての部下が三宅島で働いているので紹介してくれるという。彼が帰った後、しばらくして三宅島の情報が送られてきた。重要な情報が得られたが、残念なことに、亜硫酸ガスがまだ噴出しており、とくに心臓に持病のある場合には危険で、医者の診断が必要だ、と観光案内書に警告が載っていた。三宅島に行くのは先に延ばそう。
 甥はなかなかの読書家らしく新田次郎とか吉村昭の本に詳しい。水戸浪士が幕府に追われて加賀の国まで追われて討ち死にしたという話は昔聞いた覚えがある。その中に広木松之助という人物がいて彼も討ち死にしたそうだ。その墓が、私たちの祖先の墓の一画にあるということも聞いてはいた。私はそういうことにもあまり頓着しないたちだった。
 甥が言うには、松之助は仲間が皆討ち死にや切腹をしたことを聞いて、鎌倉の上行寺で切腹をしたという。吉村昭の何とかという本に載っているそうだ。
 薄暗い、だがモダンな酒場で同窓会でもなく、小さい頃の面影がどことなく残っている甥といろいろな昔話ともつかぬ話をして、妙に親密な時間を過ごしたのであった。
 九月の十五日、夜の八時頃に一段落してメールを開くと、姉がその日の朝方に死んだという。私には年が離れすぎていて、姉というよりは甥の母親という感じが強かったので、メールでお悔やみを述べて済まそうとした。告別式には二人の甥が出席するとだけあった。
 研究室を出ようとしたのは九時頃であっただろうか。久しぶりに研究に没頭した頭から日常感覚が戻るにつれ、死んだのは実の姉であることに気がついた。すぐさま告別式の時間と場所とを知らせるようにメールを送った。
 姉はかなりの美人であったが人一倍の苦労をした。だが、横たわった姉の顔には苦痛の跡が見られた。葬儀屋は幸せな顔ですと言っていた。私の父親が死んだときには、父親の顔は安らかで、私はそのとき妙にやすらぎを覚えたものだった。ところが、今回は姉の顔を見て涙が出て来た。姉の口に水をしたためる儀式を行った。何と残酷なことをさせるものだ。私にはそう感じられた。
 私は六人きょうだいの末っ子であった。だが、当日出席したのは私一人であった。他にはそれぞれの甥の妻の親戚ばかりだ。私のきょうだいたちはわずかな遺産をめぐって仲違いをしていた。他の兄や姉たちは、一番上の姉とは腹違いということもあって、あまり中が良くなかった。
 上の甥は横浜市の続木区という比較的新しく区画された地区に住んでいた。新横浜を降りたところの地下鉄の駅から三つ目の仲町台で降りた。家までは駅から歩いて七分と、とても便利が良い。公園や緑が多く、住宅街となっている。東京のベッドタウンだそうだ。
 午前十一時きっかりに電話すると下の甥が迎えに来た。上の甥の家につくと、床の間のある部屋で姉が横たわっていた。何となくぎょっとした。私の父親の母親、つまりぼくのおばあちゃんが亡くなったときには、いやなことは何も記憶にない。火葬場で焼いた記憶はあるが、何事も自然だったような気がする。私の父親の弟が九十九歳で、父親の妹は九十八歳で亡くなった。
 私は若い頃あれほど恐ろしく感じた死がいまはまったく怖くない。姉を見て流した涙は、まだ生きている妻の死を予感させたのかも知れない。あるいは中学一年の時に、京都で大学を卒業間近に自殺したと報道されたすぐ上の兄の死や、私の若いうちに死んだ母親に対する悲しみを蘇らせたのかも知れない。
 みなで姉を棺に移し入れ、小型のバスで延々と横浜市のはずれの斎条まで行き、いったんトンネルを抜け出てから超のつくような凝った火葬場に入る。名古屋で見るような都会のまっただ中のそれとは別世界である。広大な円形劇場風の中央をエスカレーターが上昇する。天井の一画にあるステンドグラスはエスカレーターが上方に移るにしたがって、外の景色と色が変化する。モダンアートの世界だ。
 棺を入れたのち、金属の扉が降りた。長く感じた時間の後、骨を壷に拾う儀式が始まる。おばあちゃんのときにも、遺骨を拾ったのを思い出した。
 出るとき気づいたのだが、建物全体が芸術的な施しがなされている。下の甥は仕事柄、あちこちの造作を私以上に観察して回っていた。
 上の甥の家に着き、儀式が済むとそれぞれが帰途についた。私は最後まで残っていて、縁側から庭を眺めていた。突然雨が降り、しばらくして止んだ。庭の木立や草花を見ていると上の甥の奥さんが来て「手入れが悪いでしょう」と言った。「いいえ、これくらいの方が自然でいいですよ」と私は答えた。
 上の甥が母親のために設えた部屋だそうで、床の間と庭があり、私にはこの上もなく贅沢な空間のように思えた。活動的でじっとして居られない姉は、宗教活動に凝り、ついに飛び出したと言う。苦労した姉のことだ。そのことも理解できる。
 上の甥夫婦は子供がいない。奥さんは地元の出で、妹や親戚が多く気がまぎれるらしい。でも退職していまのところに落ち着くまでは、頻繁に転勤をしてたいへんだったそうだ。お互いに結婚して間もなくの頃に、奥さんには一度だけお会いしたことがあったが、あまり変わっていないのに驚いた。 
 上の甥はうまい魚が食える店があるからつき合え、と言う。また降り出した雨のなか、駅の反対側のはずれの飲み屋に案内された。私は彼からみると幼なすぎて相手にならなかったのだろう。酒を一緒に飲んだのは今回が始めてだった。死んだ姉が二人の甥と親密にさせたようだ。
 酒と肴はとびきり旨く、その上、幽玄な時間をも味わった。


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