新フィールドノート
−その94−



古津
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 日本生態学会が新潟で開催された。日本生態学会は近年四千人以上が集うマンモス学会の一つである。四日間にわたって、九つの講演会場と毎日入れ替わりのポスタ一講演がある。遺伝子を取り入れた最新の分野や、環境問題に関わる研究発表も多い。
 今年、とくに印象に残ったのは、若手の受賞講演で、琵琶湖などの富栄養化の問題に、数理モデルを取り入れたものだった。徐々の変化が積み重なることによって、システムががらっと変わるという特性が見いだされたという。数理モデルの分野も最先端の分野だ。わが名古屋大学の環境学研究科に所属する富田君も、東海地方の湧水湿地の地形学的な成因と遷移の関連をポスタ一で発表していた。
 三宅島に関する情報もブライベ一トに得ることが出来た。三宅島は二千年の爆発以来、亜硫酸ガスを噴出するため、昨年まで島民は島を離れなければならなかった。もちろんその間は民宿もなく、研究者は立ち入れなかった。最新の情報によると、火山灰が堆積し、泥流も生じたという。まだ、調査をするためには特別の許可が下りなければ不可能だという。
 ところで、今回の新潟行きにはもう一つの目的があった。
 小千谷市に住む瀬沼賢一さんが、ハンノキとサクラバハンノキが新潟の平野部から丘陵部にかけてすみ分けていることを見いだしたのだった。私は名大出版会から出ている『里山の生態学』の中で、ハンノキとサクラバハンノキはすみ分けているのではないかという仮説論じた。瀬沼さんは、実際に新潟の平野部から丘陵地にかけて、両者がすみ分けていることを実証したのである。ハンノキは平野部から丘陵地に多く分布し、サクラバハンノキは奥まった丘陵地に分布するというのである。
 一昨年の十月に新潟県で中越地震が生じたとき、小千谷市は被災地の中心に近く、瀬沼さんの身が気がかりであった。今回メ一ルを出したところ、返事がきて無事だということが分かった。携帯の電話も教えていただいたのだが、学会に行くときに記録した用紙を忘れてしまった。顔も分からないので、もう手遅れである。
 日曜日の午後に、意を決してフィル一ドに出かけることにした。どんよりとした日で、遠くの山並みはまだ雪に覆われている。新潟の駅から信越本線に乗った。新潟の駅を出発してから、しばらくは窓から住宅しか見えなかった。いくつかの駅を経たあとで、ようやく田んぼが目につくようになった。ハンノキらしきものが農家のわきの田んぼのふちに見えたような気がしたが、走っている電車からでははっきりとしない。人間が平野全体を開墾しつくす以前には、湿地に生育するハンノキ林があちこちに広大な面積を占めていたに違いない。
 私の乗った電車は新津という駅で停車した。そこは終点で、私はそこで下りるはめとなった。新津市は比較的小さな町で、そこからは信越本線がさらに長岡にむかい、もう一つは郡山に向かう磐越西線が交わる地点でもある。冷たい風が吹くなか二十分も待っただろうか。ようやく長岡行きの電車が到着した。なんだ、この列車に乗れば、乗り換えなしで、新津でこんなに待たされることもなかったのだ、と思った。しかし、それもあとの祭りである。
 長岡行きの電車に乗って、しばらくすると丘陵が見えてきた。目指すはこの丘陵地である。新津のとなりの駅の名前は古津であった。私と一緒に何人か電車を降りたが、改札口は無人であった。駅前のこぎれいな住宅街を歩いていくと、電車と平行した通りに出た。四つ辻の角には、こうこうと明かりのついたパーマやであった。何人かお客がいた。その反対側の通りには、コンビニエンスストアがあった。少しはずれて、レストランがあった。開店中とあったが、明かりはついておらず中は暗かった。
 小さな川沿いに丘陵を目指すと、しばらくは住宅地が続き、小学校も目についた。やがて、田んぼも現れた。二万五千分の一の地形図をあてに、ハンノキの生えていそうな方角を目指したが、田んぼばかりで、湿地に出会いそうな気配はない。やや遠くで、五、六人の人たちが集団でやってきて、丘陵の斜面を登って行った。ハイキングをしている感じであった。
 諦めかかったときに、湿地が見つかった。
 これまでも何度も経験したことではあったが、初めての土地で調査をすると、目的の樹木がなかなか見つからない。そして諦めた頃、あるいはあきらめてしばらくしてから探していたものが見つかることがよくある。
 湿地の中央には幅十センチほどの水流があり、そのわきにハンノキらしきものが立っていた。湿地といっても靴のまま歩けるほどであるが、遊歩道が板で作られており、流水に沿って、木の杭も並んでいる。つまり手入れが行き届いているのである。湿地の地形は関東の谷津に似ており、奥はすぐ狭まり三角形状の立地となっている。道路の他に両側は斜面に囲まれている。
 ハンノキとサクラバハンノキは同時に見たことがないので区別が難しいが、とくに葉の無い時期はそうである。私のこれまでの経験と感で、その湿地の樹木はハンノキに違いないと判断した。
 一辺が二十から三十メ一トルほどの狭い区画にすぎない小さな土地であるが、道路を挟んだ田んぼや林の風情は何とも言えない。
 湿地に接した斜面を登っていくと、コナラ林の林床にはササが密生していた。手入れがよく行き届いていた。突然アカガシに出会ったのには驚いた。東海地方では標高が高くないと分布していないからである。雪が多くても太平洋側に比べると冬の寒さが厳しくないのである。
 さらに坂道を上ると、尾根に出る。見晴らしがよく、今きた斜面とは反対側に、県立の植物園が広がっているのが見渡せる。美術館も接している。どことなくブリユ一ゲルの絵の世界のようだ。これで雪が積もっていたらまさしくブリュ一ゲルの雰囲気である。
 最近、ルネ・デュボスの『地球への求愛』という本を読んでいるが、その中で彼は人間化された自然ということを述べている。イギリスや日本の農村を例に挙げて、人間が作り上げた自然の良さを指摘している。
 目の前の風景はまさしく人間化された自然そのものである。手入れが行き届いていて、とても感じが良い。あまり都市化していない農村の風景。といっても過疎化も進んでいない農村。それは現代にあっては一種の桃源郷のように思える。ただ、雑木林はよいが、スギの木立が多いのが難点である。
 私は、植物園のある方には降りず、もときた道を下って戻った。後ろから六、七人の年配の男女が足早に私を追い抜いて行った。この人たちもハイキングの出で立ちだった。
 日が沈みかけ、冷たい風がいっそう冷たくなってきた。名古屋では終わりかげんのスギの花粉をたっぷり吸ってしまったようだ。寒さに身震いしているとき、とある庭先を見ると、まさにほころびかげんの梅の花が一輪、目にとまった。ああ、新潟は春が遅いんだ。
 駅にちかづくと、例のレストランは、相変わらず暗いままだった。ふと見ると、道路の向かい側に明るい店が一軒あるのに気づいた。よく見るとパン屋だった。オレンジ色の店内で、若い女性が一人で働いている。お客は一人もいない。まるでおとぎの国の世界であった。


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