新フィールドノート
−その92−



たった一個のブナの殻斗から
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 長い人生は、終わりに近づくほど短く感じられるものだ。これまでの仕事をまとめたいのだが、残された時間は少ない。
 この世の中で起こることはすべて必然的のようでもあるが、絶対的な必然というものは存在しないであろう。さまざまな偶然的な出来事に出会うが、それにはそれなりの必然性がともなう。
 今年の十月に、たった一個のブナの殻斗(かくと)をふと見つけた。穂高山麓の一画である。そこはブナの木が存在するとはついぞ思ってもみなかった場所である。付近を探しまわっても、ブナの木は見つからなかった。
 もしかすると、今年はブナの実が豊作なのかもしれない、と気づいた。今回は穂高の山麓で、ミズナラのどんぐりを拾いに来たのだった。
 東海地方に分布するこれまでモンゴリナラと呼ばれていたナラの一種は、どんぐりが発芽すると、根が斜めに伸びるのである。重力に少々逆らって。東山丘陵にたくさん生育しているアベマキのどんぐりは根を地中に真っすぐに伸ばす。通常は根は地中に真っすぐに伸びて当たり前であるが、ほんとうにそうかどうかは実際に見てみなければならない。モンゴリナラに近縁であるミズナラでもどんくりの根が地中に真っすぐに伸びるかどうかを調べる必要がある。そこでミズナラのどんくりを拾いに来たというわけだ。
 今年は名古屋大学のキャンパス内のコナラはほとんどすべてがどんぐりを着けなかった。東山丘陵全体でコナラのどんぐりは不作であった。それに反して、穂高ではミズナラのどんぐりは拾っても拾っても拾いきれないほどたくさん落ちていた。
 必要充分なだけミズナラのどんくりを拾ったのち、岩の上に腰をおろしてにぎりめしをほおばっていたときのことだ。ほんとうにたった一個のブナの殻斗を発見したのは。
 予定を変更して、ワサビ平というところにあるブナ林を目指した。歩いて一時間半ほどかかる。心臓に負担をかけないようにゆっくり歩くから、時間は余計かかる。ブナの結実に関する研究は十七年かけてまとめて論文にし、今から十年前に終了している。おおよそ六年の周期でブナは大きな豊作年を迎えるという結論だった。しかし、その後六年を過ぎてもブナの結実は少なかった。去年は、もうブナの結実の確認を諦めていた。今年も、ミズナラのどんぐりを拾ったらさっさと帰るつもりでいたのだ。
 ブナの結実が六年で大きな豊作を迎えるといっても、結実量にはそれなりの変動がある。今年は何十年に一度の大きな結実量のようだ。ブナの実が林道いっぱいに落ちている。
 残念なことは、ブナ林に到着した時刻が遅く、ブナの実を十分に拾っている時間がないことだった。運悪く霧雨もようになり、傘をさしながらで思うように拾えない。
 穂高に来るのは、もう今年が最後になるかと思っていたが、来年の春、ブナの実生を見る楽しみが出来た。
 ブナの結実周期の要因についてはいろいろな説があり、まだ決着はついていない。多くの果実を生産しただけ、光合成でかせいだ養分を果実にまわし、その分翌年の葉にあてる養分が少なくなる。だから、葉の数を回復するのに長い年月がかかるということは大いに有りうる。また、地域ごとに周期が異なるということは、何らかの気候要因が関わっている可能性も否定できない。しかし、それはまだ明らかにはされていない。まだまだ分からないことばかりだ。


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