新フィールドノート
−その91−



武蔵野の雑木林
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 久しぶりにフィールドワークに出かけた。七月十七日から十九日にかけて東京の八王子市近郊を歩いた。去年の秋以来にあちこち出歩いて以来である。
 今年の三月に情報科学研究科の修士課程を卒業した神谷(かみや)君は、アベマキとクヌギの雑種を遺伝子で検討するというテーマで研究を行った。
 彼にはRAPD法によるDNA断片の変異パターンから雑種を推定する方法を勧めたのだったが、種特異的マーカーを検出する方法に彼は固執した。そこで形態学的な性質も調べるという条件で了承した。
 アベマキの葉裏には肉眼では見分けられない先が枝分かれした微小な星状毛が無数に存在する。それに対してクヌギの葉裏には星状毛は存在しない。アベマキは高温・乾燥に耐えるが、それはその葉裏の星状毛が気孔から出た水蒸気を滞留させ、過剰に蒸散するのを防ぐことができるからである。
 神谷君は結局アベマキとクヌギの種特異バンドの検出には成功しなかった。両者の遺伝的距離で何とか論文にまとめた。また、星状毛による形態学的検討では、飯田市あたりから伊那市にかけて交雑帯が存在することをつきとめた。
 私は、アベマキの分布していない地域でクヌギのみの星状毛の有無を確認してみようと思いたった。てっとりばやく行ける場所として、八王子市近郊を選んだ。かつては国木田独歩が本にも記した雑木林が国立や国分寺あたりにも残っていた。東京都立大学が八王子に移転した頃にはまだ雑木林も周辺にかなり残っていたが今はわずかである。
 七月十七日、中央線に乗り高尾で降りた。二万五千分の一の地形図を見ながら市街地とは反対の方角を目指した。すると林業試験場浅川実験所に出会った。かつてここで行われたヤチダモの種子発芽の実験に関する論文を思い出した。ここがかの浅川実験所かと感慨深く感じた。しかし、そこは人工的に樹木を植えたところである。目指すは雑木林のクヌギである。
 少し先に進むと、武蔵野丘陵という墓地を取り巻く森林地帯に出た。ところがその周囲は鉄条網が張り巡らされていて一歩も入れない。夕暮れ近くなってきた。しばらくすると反対側の斜面に柵のない林が見えた。そこはお寺の裏山だった。ちょうど通りかかった住職に許可を得て、斜面を登った。少し暗くなってきたが、間違いなくクヌギがあり、いくつかの個体からサンプルを採集することが出来た。
 次の日は八王子から横浜線に乗り、相原という駅で降り、雑木林を目指した。日差しがとてもまぶしかった。人家のわき道を通り、やみくもに林に向かった。林道は少しひんやりしていて、クヌギも見つかった。だが、数が少なすぎる。いったん林を突き抜けて、谷を越して次の林へと向かった。その間に住宅街が広がり、歩道は熱気をおび、歩くのが辛かった。谷津田(やつだ)と呼ばれる関東地方特有の浅い谷間を挟んだ低い丘には雑木林が連なる。懐かしい風景だ。昼近くなると林の中でも明るい。谷までは田畑が放棄されたところもあるが、まだ耕作されている部分もある。そこはとても明るくて、目がちかちかする。クヌギの葉を探して上方を見上げると目まいがしてきた。その日は気温が異常に高かったせいもあるが、血圧を下げる薬が効きすぎているのだろう。とてもまぶしくて目を開けていられない。一瞬、黒沢明監督の映画の「まあだだよ」の世界に入ってしまったようであった。その日どこかで三十九度の最高気温を記録したということはあとで知った。


  前回     メニューへ    次回  
  
新フィールドノート
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp