新フィールドノート
−その88−
鏡が池
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三
地球の温暖化が進んでいるというのに、今年は三月の末に寒波や豪雪に見舞われ、咲きかけたソメイヨシノの花が開ききらないうちに四月に入ってしまった。最近、地球温暖化が疑わしいという批判的な主張もあるらしいが、近年のような気象の大きな変動は、温暖化と関連があるに違いない。
名古屋大学の北西部に鏡ケ池があり、その池の淵には桜や柳が植えられているが、毎年、桜の花のピンクと柳の新緑の黄緑とが、ほんのひととき京都の風情を偲ばせるのであった。
鏡が池のソメイヨシノは八日頃に満開となった。鏡が池と道路を挟んだ北側には、名古屋大学付属中・高等学校がある。その中・高校は鏡が池の前の道路からずっと下った低い位置にあり、その校庭の土手の上に、鏡が池と道路を挟むようにして桜並木がある。この桜並木の下で、学生のいくつかのグループがシートを敷いて花見の準備をしているのを見かけた。晴れた日には満開の桜はかえって白っぽく、それほど見栄えはよくなかった。
十一日は終日雨が降った。付属中・高校の土手の上の桜並木の下には、桜の花びらが散って、敷き詰められていた。もう雨は止んでいて、どんよりとした空を背景に、ソメイヨシノの花がピンクに染まって見えた。雨がちの日の方が桜は美しく見える。そう、一昨年の平和公園でのお花見のときも雨で強い風も吹いた。でも、そのとき生まれて初めて桜の花が美しいと感じた記憶がある。
十一日は月曜日だった。かれこれ夕方の七時近かったと思う。花粉症がひどいせいか、もう仕事を続ける気がしない。並木の下の道一面に敷き詰められた桜の花びらの印象を記憶にとどめ、鏡が池のわきの道路からキャンパスの外に出た。そこは四谷どおりに連なる広い通りである。幸いタクシーが通ったので呼び止めて乗り込んだ。ドアから入り込む前に、もう一度鏡が池とその周りに並ぶ柳と桜の景色を記憶に留めた。この先、もう二度と、このような経験はないような気がした。
途中、椙山中・高等学校の校庭のわきを通った。校庭に沿った桜並木がタクシーの中からも見ることが出来た。せっかくタクシーで覚王山まで駆けつけたのに、肝心の一幅は閉まっていた。たしか五時からやっていると聞いていたのに。どうも臨時休業のようである。
一昨年の春に、この一幅主催の花見が平和公園で行われたのであった。それ以来、花見は行われていないそうだ。そうそうその時も雨が降り、風が強く吹いて、散々であったのだが、雨の中で、桜の花が栄え、それで京都の景色に想いを馳せたのだった。そのときのかけはしの文には、「今後二度とこのような美しい景色には出会えないであろうと思えるほどの艶麗な光景であった」そして、「あまりの美しさに、死んでも悔いはないという心境になった」とある。
定年まであとわずか。ほんとうに、あと何回桜が見れるかという時期にきている。
今年はスギの花粉の飛散量が多く、花粉症の症状もひどい。長年わずらっていると、自律神経がおかしくなってくる。最近永井明の「ストレスに効く話」を手に入れて読んだ。カナダのストレス専門の研究所に行く話である。彼は後に医者を辞めて角川文庫から「ぼくが医者をやめた理由(わけ)」という本を出す。どちらもたいへん面白い。
鬱々とした日を送る中で、彼の本は憂さを晴らしてくれる。
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