新フィールドノート
−その85−



至福のとき
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 嵐の前の静けさだ。次第に窓越しに風の音が聞こえるようになってきた。いよいよ台風二十二号の到来である。今日は十月九日、土曜日、研究科棟には私のほかは誰もいない。中心部の風速が五十メートルという近年にない大型の台風が日本列島を直撃するのだ。
 列島に上陸すると速度が遅くなることが多いので、今日のうちに台風が過ぎ去って欲しい。明日の日曜日は、恵那の大根山に調査の予定が入っているのだ。
 私は昨日、生まれて始めて定期券なるものを購入した。これまではフィールド等の出張が多いので、回数券を使用していた。十月六日から地下鉄名城線が開通し、天白区から通う者は、バスから地下鉄に乗り換えねばならなくなった。地下鉄の環状化で多くの人が便利になった反面、私にとっては少し不便になった。
 十月九日の日付から使える定期券を買ったのに、その最初の日が台風で使用できないというのは残念だ。台風二十二号の到来は午後三時頃だという。そこで早めに家を出て、籠城するつもりで大学に出かけることにした。市バスも地下鉄も人影はまばらである。大学のキャンパスでも人をほとんど見かけない。
 今日こそ新しい実験の準備をしなければならない。実験室のプランターの苗床には、スダジイの種子がすでに何日か前に発芽しているのである。そろそろシュート(茎と葉が未分化な状態のもの)が出始めている。暗い条件で育てるので、明るいところでシュートが成長しては困るのである。発芽して間もないシュートの先端の成長点は周囲の明るさにとても敏感で、明るさに応じてどれだけ伸びるかが決まってしまうのである。今年はスダジイとツブラジイの耐陰性の比較を行う予定でいる。
 タブノキとスダジイの耐陰性の実験はほぼ終了している。約四十ルクスほどの明るさでは、スダジイはほとんど生存しているのに、タブノキはあと一個体を残すのみで九個体は枯死してしまった。三宅島の溶岩上でタブノキからスダジイに遷移するのに耐陰性は関係ないという論文が出ているが、それに対する反論がようやく実証出来そうだ。森林が遷移して極相に達するまで数百年かかるので、これまでの遷移の理論は批判されてきたが、ついに実証しうるときが来たのだ。しかしながら、これまでのようなすべての場で一様に遷移が進行するという考え方はもはや通用しない。新しい理論的な枠組みが必要である。
 貯まっていたデータを整理しながらふと窓の外を見ると、少し明るい。そういえば風の音も聞こえない。さきほどまでビュービューいっていた風音が止んでいる。いよいよ台風の目に入ったかと思った。しかし、いつまで経っても変化がなかった。台風二十二号は太平洋側に逸れて素早く去ったということは後でわかった。
 ところで話は変わるが、最近晶文社から出ている池内了さんの『ヤバンな科学』という本を手に入れた。新聞や雑誌に投稿したエッセイを纏めたものであるがたいへん面白い。科学の啓蒙書としては最高である。科学的なものの考え方がしっかりしているばかりでなく、食べものに関して複雑系の視点から切り込んだり、自分の家の新築に、企画から素材の選定まで関わり住環境の問題を実際的に示している。いわゆる狂牛病の問題や人工化学物質の問題を取り上げ科学者や政治家のモラル・ハザードを指摘している。取り上げるテーマの多彩さには驚くばかりである。専門分化した研究者や将来の政治家になる者には、科学と倫理という点で優れた教養書となりうる。
 池内さんはこれまでもユニークな本を書いているが、岩波ジュニア新書の『これだけは読んでおきたい 科学の10冊』はそれぞれ専門の異なる九人が本の紹介をしているのだが、それぞれの解説者の個性が出ていて、たいへん面白い。また、それぞれの解説も優れている。私はその十冊の多くを読んですでに知っているにもかかわらず、面白いのである。私の愛読書の一つであるK.ローレンツの『ソロモンの指輪』は動物行動学が専門の正高信男氏が解説をしているが、その読み易い本をむしろ動物の行動学の視点から深めているのである。また、ワインバーグの『宇宙創成はじめの三分間』は池内氏自身が解説をしている。私もこの本は読んだことがあり、宇宙から来るマイクロ派がアンテナで感じた雑音を解析することから発見されたという事実も知ってはいた。しかし、ビッグバン宇宙の認識の発展は何度読んでもワクワクする。年とともに忙しくなり、本を読む機会が減少している私のような者にはワインバーグの本を読むよりもこの池内氏の解説の方が読むのが容易で有り難い。池内氏の狙いは、多くの若者にこそ、科学がワクワクするものだということを訴えたいのであろうが、本当に面白いものは大人にとっても面白い。
 最近はあまり生協で本を買って読むことがなかったのであるが、つい手に取って買って、しかも読み通してしまった本がある。杉山幸丸氏の『崖っぷち弱小大学物語』(中公新書ラクレ)である。148 犬山の霊長類研究所の所長を経験した杉山氏は、東海学園大学で新しく立ち上げられた人文学部の学部長として赴任し、学生の教育と教師集団の組織化に尽力した。国立大学の法人化と絡んで、大学経営が市場原理に曝され、大学が淘汰されるという危機感が大学の経営者にはある。そのような中で、大学とは教育とは何かを考えさせられる本である。
 教養教育上の難題の具体例が面白い。「あまり頻繁に注意すると授業が進まなくなるので放っておけば、携帯電話、お茶やジユースのボトルやパック、喫煙具、分厚いマンガ、鏡と化粧道具などを平気で机に出して、ときどき見ている。」「つい、こっくりこっくりしてしまう居眠りならまだしも、机に突っ伏して始めから終わりまで熟睡したままの者もいる。」
 これはよそ事ではない。我が名古屋大学でも多かれ少なかれ似た現象がある。とくに目的意識のない何割かの学生には、上記のような行動を取りやすい。
 杉山氏は、長らくニホンザルやその他の霊長類の社会の研究を行い、本も出している。そのような専門家としての立場から人間社会における家庭のしつけの問題、親の世代の問題として社会学的な視点を示している。また、学部長としてのリーダーの役割りや、教育を学生の視線で捉えることの重要性にもきちんと触れている。
 今西錦司が創始した日本の霊長類学を受け継ぎ、『霊長類生態学ー環境と行動のダイナミズム』という独自の分野を切り開いた集大成の本がある。そのような杉山さんならではの視点が随所に表れている。
 十日の十一時頃、JR恵那駅に着く。大垣東高校の後藤先生の車で大根山に向かう。今年は九月中に調査に出かけるゆとりがなく、十月ではもう遅いのではないかと思っていたところ。後藤さんは、禾本科(イネの仲間)の穂(花)を見るには今頃の方がいい、と言う。
 これまでハナノキの天然林は見いだされていなかったのだが、後藤さんが発見したのだった。論文にまとめるには、それなりにデ一タを取らなければならない。
 大根山湿原には昼頃に到着する。心配した台風二十二号の影響もなく、空は晴れ渡り湿原に群生するシラタマホシクサを見ながら昼食を取るのは至福のときである。


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