新フィールドノート
−その83−



たった一個のブナの実を求めて
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 梅雨入りしても晴れ間の暑い日が続くこのごろである。
 四月は温暖で、五月を待たずにツツジが咲き始めたのに、五月には、北欧の冷たい風がジェット気流に乗って日本海を渡ってきたため涼しい日が続いた。グロ-バルな影響がすぐに感じられるこの頃である。
 最近、ラヴロックの『地球生命圏』という本を読んだが、それによると大気や海洋を含めた地球全体に生命を維持するホメオスタシスが働いているのではないかという仮説を述べている。
 グロ-バルに恒常性が維持されているとは考えにくいが、人間の活動による大きな変化を巨大な海と大気がバッファ-となってその影響を緩和している可能性は大きい。
 私たちの成長に欠かせない甲状腺ホルモンの構成要素であるヨウ素は海藻が排出して、それがヨウ化メチルとして気化して陸上に供給されることを指摘している。
 ところで、五月の連休に、久しぶりにフィ-ルドにかけた。ブナの実生の調査に出かけたのである。昨年、ブナが豊作だったからである。新穂高の左俣では一九九五年以来、八年ぶりに豊作となったのである。
 五月四日に高山に宿泊し、翌日濃飛バスで新穂高温泉へと向かった。雨天の予定が、新穂高ロ-プウエイのバスの終点に近づく頃には雨も上がった。
 登山道の道ばたでは大きなフキのとうが咲いており、調査の時期が少し遅かったかなと心配になった。
 急カ-ブの登山道を進むと、笠ヶ岳が姿を現し、残雪も見れた。
 さらに進むと、雪渓が登山道を覆っていた。すでに登山者の足跡がついていて、簡単に越えることが出来た。
 いくつか小さな雪渓を越えた後に、巨大な山のような雪渓に出会った。そこは数年前に大きな斜面崩壊のあった跡で、とくに裸地の部分では雪が凍って融けにくくなっているのである。すべってなかなか登ることが出来ない。脈も乱れてくる。つま先で凍った雪に穴をあけ、一歩また一歩と登る。その雪渓の上部はほぼ平坦であるが、見るとその規模の大きいことよ。 巨大な雪渓を越えると目指すワサビ平である。
 去年ブナの実を拾った樹の下でさっそくブナの実生を探し始めた。凍った雪がまだ林床に残っており、 氷は冷たく痛い。  しばらく探して、 一つも見つからなかった。
 その場所は諦めて、  もっと奥に進み、ふたたび探し始めた。殻斗 ( クリのいがに相当 ) はたくさん落ちているので、  ブナの実も落ちたはずだ。 昼食を取る間も惜しんで調査を続ける。 ようやく、  雪解け後間もない地面に一個体を見つける。根は地中に伸びて、子葉を包んだ果皮が立ち上がっている。 写真を撮ろうとするが、レンズが曇ってしまい、 ピントが合わない。 何とか撮影したが、 念のために実生を堀り取って、持ち帰ることにした。
 二時間以上もかけて、 ついにブナの実生は一個しか見つからなかった。
  連休は混んでいるので、 帰りの特急は予約をしてある。  それに間に合うバスに間に合うように戻らなければならない。
 私はまた来た道を引き返し、ゆっくりとまた雪渓を越えて下山した。 多くの登山者が私を追い抜いて行った。 最後の雪渓を越えたところで、 ハイヒ -ルを履いた女性を連れたカップルに出会ったのには驚いた。
 その翌週の月曜一限目の授業のなんと辛かったことか。


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