新フィールドノート
−その81−



ドリーム
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 いつの年も梅の咲く頃には厳しい冬も去り、日増しに日差しが強まっていく。梅は桜と対照的に開花期が長く、早いものは二月の初旬には咲き始めるのに、三月一日になってもまだ散らずに頑張っているものもある。ウメは帰化植物で、中国原産である。保育者の樹木図鑑によると、七百年前にはすでに日本に渡来していたとある。当時は中国の文化が大いに輸入され、漢字もすでに伝来している。漢字で書かれた万葉集はには桜の花は現れず、梅の花の詠まれた歌が多い。花を愛でる文化も文字とともに伝来したのであろう。
 東海地方には、人間が大陸と行き来する以前に大陸から渡ってきたと考えられる植物も多い。ヒトツバタゴは、岐阜県の東濃地域、対馬、中国大陸と大きく飛び離れて分布している。すでに紹介したモンゴリナラも中国から分布域を広げてきたものの一つである。ただ、山崎早江子さんの研究では、東海地方のモンゴリナラは遺伝的には日本のミズナラに近いという結果が得られている。私の予想とは異なるが事実は事実として受け止めねばならない。山崎さんは、修士論文の中で、東海地方のモンゴリナラがミズナラ起源であろうと推測している。このことは誤りではない。しかし、だからと言って、大陸起源であることを否定できないと私は推測している。自然科学の醍醐味は、新しい事実の発見も大きいが、より深まった謎が次第に解けてゆくときの喜びもまた格別で、それは言葉では言い尽くせない。
 一昨年(二千二年)の七月十一日付けのネイチャーに、中央アフリカのチャドでヒトの祖先の化石が発見されたという記事が載った。中日新聞にも大きく頭骨の写真入りで載った。私はこの記事に大きな疑問を抱いた。サヘラントロプス属というこの新属の発見は、これまで考えられていたヒトの祖先が東アフリカで起源したという説を覆すものとして受け止められた。実は一九九五年には、同じ中央アフリカのチャドでアウストラロピテクスの一種がすでに見いだされていたのである。西アフリカと東アフリカを隔てる大地溝帯がチンパンジーとヒトの祖先を分離させたという仮説が危機に見舞われたのである。
 しかし、チャドで見いだされたアウストラロピテクスは、東アフリカで起源した後に西アフリカまで進出したと考えれば説明はつく。東アフリカで直立二足歩行を獲得したアウストラロピテクスが二千五百キロメートル離れたチャドまで分布域を拡大したのに違いない。チャドのアウストラロピテクスは、あの有名なルーシーよりも時代があとなのだから。
 それでは今から六、七百万年前のものとされるサヘラントロプスはどうなのか。このサヘラントロプスはヒトの祖先でない可能性が高い。頭骨だけでは、犬歯がいかにヒトに似ているといっても、直立二足歩行を裏付ける骨盤や足の化石が見いだされなければヒトの祖先とは判定出来ないのである。
 話はもとに戻るが、東海地方には先のモンゴリナラをはじめ東海地方に固有のあるいは準固有の植物が豊富である。シデコブシはコブシから分化して東海地方の湿地にのみ分布するようになったと考えられている。私はこの問題を東海ラジオで話したことがある。
 去年の夏、私は栄えの東海ラジオのスタジオに出向いた。名古屋リレー・セミナーの一つとして「東海地域の自然環境の特性」というテーマで話をするのである。スタジオに着くと、若くてとても美しい山崎聡子さんと、日比野君というアシスタントが私を出迎えてくれた。山崎さんは私の講義を受講したことがあるのだが私を覚えていないようだった。それもそのはず、彼女はアメリカに短期留学し、期末にレポートを提出したのみであったから。
 ディレクターを交え、前もって送っておいたレジュメをもとに打ち合わせが始まる。私は話が下手なのでとても緊張する。彼らは仕事に慣れており、今日話をするシデコブシについてホームページから情報を引き出してくる。話す内容のおおすじが出来ると、録音室に移る。テーブルとマイクだけが置いてある部屋に入ると、隣に録音装置がガラス越しに見える。
 私の極度の緊張を前にして、気軽な雑談から入る。私はブナ科の専門家なので、どんぐりの絵の入った名刺を配った。娘がパソコンで作ってくれたものだ。可愛いどんぐりの写真を見て、笑いがスタジオ内を包んだ。
 いよいよ本番でスタートだ。山崎さんと日比野君の「お早うございます」というとても元気な声が響く。スムーズに会話が流れず、何度この「お早うございます」を何度繰り返したことか。デイレクターがその都度注意を与える。小さなミスはやり直せば済む。私の発音が悪く、聞き取りにくいときは、彼らが聞き直したり、繰り返したりしてくれる。
 途中で、どうしても繋がらずついに、デイレクターも頭を抱えてしまった。たった二十五分なのに、話がもたないとも言う。長いこと中断して対策を練る。山崎さんに講演の経験はないのかとなじられてしまう。そう言えば最初に受けとった謝礼が三万円という今まで経験したことのない額であったことに気づく。もう絶対絶命かという暗い雰囲気が長く続く。
 とにかく、東海丘陵要素という植物群は湿地が重要で、その湿地は過去に流れてきて堆積した砂礫層が隆起して、そこからわき出た地下水が湿地を涵養して、シデコブシが、と話を作る。
 私たちは再びマイクに向かった。今度は途中一度も途切れずオーケーが出た。それにしても山崎さんはプロだ。この話の下手な私から上手に話を引き出してくれた。終了後、私は大きな安堵を感じた。何と夕方の五時頃から始まり、スダジオを出たのは、夜の九時を大きく回っていた。もう、金輪際、ラジオでの出演は断ろう。
 あとで、娘にテープを聞かせると、緊張しているのが分かると言う。
 私は、これでも以前よりは度胸がついているつもりだ。生まれてこのかた、歌を歌ったことのない私が比較的最近、スナックでカラオケを歌うことが出来るようになったからでもある。えっちゃん、と呼ばれていた女性に誘われて、おそるおそるマイクを握ったのが最初だった。テレビ画面の文句をなぞればよい。デュエットで、女性が先に歌うので、真似しやすい。歌い終わると、うまいと褒められた。商売上手のお世辞とわかっていても、そのひと言は人を安心させる。五十を過ぎてからの道楽は恐ろしい。家に帰り、布団に入っても、彼女の歌が耳から消えない日が続いた。
 私が歌を歌うようになったのは家から比較的近いドリームというスナックであった。その頃、私は毎日大きなストレスを感じる日が続いていた。それまで、私は酒を飲んでも人と話が出来ず、ストレスを解消することが出来ないたちだったのである。私が一昨年『里山の生態学』を出した頃には極度の疲労で、不整脈が頻発するようになった。でも不思議と、歌を歌うとストレスは消えた。だがしかし、その後ドリームに行っても、不整脈のためソファで寝ていることが多くなった。そこは、わが家よりも居心地がよいのである。
 五十半ばにして、生まれて初めて歌を歌うようになり、私はようやく普通の人間になれた。しかし、いつからだろう、ドリームに行かなくなったのは。私はまた以前のように口数が少なくなった。私のこの遍歴は芥川の『杜子春』と似てなくもない。


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