新フィールドノート
−その80−



稚内
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 最近、これまでまったく関心のなかった現代アートに興味が湧いた。そして、図書館から一冊の本を借りた。その本の口絵には、ニューマン、ジャッド、クライン等の現代巨匠の作品がカラーで掲載されていた。最初、それらの形象は私に何の感慨も与えなかった。美術館の学芸員たちが書いている解説を読むと、口絵の作品が違って見えた。だが、言葉による情報だけでは、実際の印象は分からないものだ。
 名古屋市美術館に常設されているモディリアーニのおさげ髪の少女がどんな輝きをしているかは、どんなに言葉を費やしても、実際に一度もその絵を見たことのない人には伝わらない。
 それなのに言葉による作品、つまり小説がとてつもないリアリティを示すことがあるのはどうしてなのだろう。
 二〇〇三年の九月二十三日、秋分の日の朝に、院生の山崎さんと私は名古屋空港を立った。天候はあまりすぐれなかった。 機内では、このときがチャンスとばかり、彼女の研究の進行状況を尋ねた。彼女はDNA解析の仕事をしているのである。話に熱中しているとき、ふと気づくと、機体がひどく揺れている。かつて三宅島に通ったときに、小型機で揺れるのをしばしば経験していた。だが、こんな大型の旅客機がこれほど揺れるのは始めての経験だ。やがて機内放送で、大気が不安定なので機体が揺れるという説明があった。機体が激しく揺れるたびに大きな不安に襲われる。
 やがて、私たちの便は、無事千歳空港に到着した。昼食を済ませた後、さらに稚内へと向かう。今度は小型機である。空は次第に晴れ上がり、まもなく稚内(わっかない)に着く頃だ。幸いにも、窓から利尻島を見ることが出来た。
 稚内空港からはレンタカーで宿まで直行する。いや、まだ時間にゆとりがあるので、せっかくだから、半島を一回りして、お目当てのものを探そう。もちろん山崎さんが運転する。半島の海岸部に出ると、それらしき矮生の森林が目に入る。車を降りて近づくと、風に吹き晒されて背丈の低くなったナラの林が厳然として存在する。いつでも研究材料との始めての出会いは感動を覚える。
 モディリアーニとの出会いもそうだった。それまでセザンヌばかりに肩入れしていた私は、あるきっかけでモディリアーニの絵の虜になったのだった。あのろくろっ首のような奇妙な人物像がまったく気にならなくなり、微妙な様々な色のハーモニーが醸し出す色調に、得も言われぬ感覚が呼び覚まされるようになったのである。
 ところで、目の前の押しひしがれたようなナラの樹は、ミズナラともモンゴリナラともつかない外部形態をしている。葉の形も個体ごとに変異が大きく、殻斗(クリのいがと同じ器官)にも変異が認められる。東海地方に分布しているモンゴリナラと呼ばれている集団とは明らかに異なる。山崎さんの研究テーマは、この東海地方のナラが大陸のモンゴリナラと同じ種であるか、それとも日本のミズナラ由来のものかを遺伝子解析に基づいて突きとめようというものである。道北にもモンゴリナラらしきものがあるという情報を得た。それで、それも比較の対象にしようと道北まで来たわけである。
 稚内の小さな半島を回って宿に着く。その建物はこぢんまりしていて洒落ている。最果ての地に来たとはとても思えない。宿は稚内駅に近く、駅前の通りは短いアーケード街になっている。人通りが少ないせいか、西部劇に出てくる町の雰囲気を感じる。店内がやけに豪華に見える大きなレコードショップがある。お客はまったくいない。夜には、近くの店に入り、タラバガニなるものを注文した。
 翌日は宗谷岬方面にサンプリングに向かう。左に海を見、右手に広大な原野を望みながら北米大陸をドライヴしている気分になる。よほど強い風に見舞われるのであろう、背丈ほどの低いトドマツ林が現れる。例の矮生のナラ林がそれに連なる。やはり葉や殻斗の形に変異が大きい。大陸のモンゴリナラとミズナラとの雑種の可能性がある。
 サンプリングが済むと、私たちは宗谷岬へと向かった。最北端の地は、さざ波の立つ青い海へと続いている。山崎さんが感激している。
 海と反対側の丘を登ると、肉牛牧場という広大な草原に出会う。戦前、軍がソ連を監視した壊れかかった小さな建物が展望台になっている。また、海に背を向けて男女の像が立っている。広大な草原とこれらの造形を目前にすると、タルコフスキーの映像の世界に入ったような感じにとらわれる。
 私が現代アートに目を開いたきっかけは、昨年(二〇〇三年)わが名古屋大学キャンパス内でモダンアートの展覧会が開かれたことによる。情報科学研究科の茂戸山清文先生の研究室の院生たちが企画し作品を出展したのである。
 展覧会中に、偶然にもエレベーターで茂戸山さんとばったり顔を合わせなかったら、私は現代アートに関心をもつこともなかっただろう。
 会場の一つである留学生会館へ行ってみると、ロビーやラウンジを利用して少々変わった造形物が配置されていた。山下香織さんの作品は衝立に映像を映したもので、右手には裸の人体が、そして左手には人体の骨格が二つずつ対になって映し出されている。じっと見ていると、見えない球体のようなものが体内で移動しながら骨を運動させている。何を意味しているのか聞いてみたら、自由に見て下さい、と言われてしまった。
 もう一人の藤下麻香さんの作品は、壁全体に人が行き来している光景が映し出されている。皆かなり急ぎ足で歩いている。何倍かの高速で映しているということだった。さらに説明を聞くと、新宿の街で撮影したもので、その中にゆっくりと歩いている人も居ると言う。なるほどよく見ると区別がつく。壁のカーテンの一部に人の手があり、そこからカーテンの隙き間を除くと、壁と思ったのはガラスでその向こうには小さな空間があって、そこには裸の人体像が配置されていた。静かで不思議な空間が存在していた。
 聞けば、彼女たち二人は芸大出身で、彼女たちのアルバムには、たくさんの作品が収められていた。それを見ているうちに、私は思いだした。私の娘の通っていた名古屋造形短大の卒業制作展を見に行ったときのことを。そのときも様々な造形物があったのだった。現在、娘は家から遠く離れたところにいる。
 最近、名古屋大学前を開通したばかりの地下鉄を利用した。現代アートの刺激を受けたせいか、それとも開通した地下鉄構内が真新しいせいか、コンクリートや敷石の模様がやけに目に入った。最近は、バスに乗っても通りを歩いていても、不思議な感覚にとらわれる。夜のバスの車内の明かりが車内の空間をまるで絵のように感じさせる。
 現代アートは訴える。既成の芸術的観念を打破せよと。永劫普遍の芸術は存在しない、その時代の芸術があるのだと。それでも私は、ゴーギャンの絵を感動なしでは見ることは出来ない。
 二泊三日の採集を終え、稚内空港でレンタカーを返し、千歳空港で山崎さんと別れた。私は植物学会での発表のため札幌に向かう。道北ではあまり晴天には恵まれないという話が嘘のように、稚内では三日間とも晴れわたった。ところが今現在、千歳空港から札幌へ向かう列車は薄ら寒い曇り空の中を走り、横なぐりの雨まで降ってくるではないか。


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