新フィールドノート
−その78−



下北半島
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 今日は八月十五日金曜日、お盆である。大学には、さすがに人影が少ない。ほとんどの人が帰省したり休んでいる。しかし私には仕事がある。かけはしの原稿の締め切りが迫っている。
 今年は雨がちで、気温も比較的低めで、前半は過ごしやすい夏であった。
 私は何年かぶりで、妻の母親の墓参りをすることにした。娘が車で青森まで行くというのである。これに便乗しない手はない。フェリーで仙台まで行き、仙台から高速道路で青森まで行くという。家族で旅行をしたのは何年前だろう。娘と息子が小さい頃に旅行したことしか記憶がない。妻の母親が死んで、もう十五年になるという。妻の心臓の手術が二度も行われ、妻の母親は娘の看病と孫の世話で寿命を縮めたのであった。
 七月二十二日月曜日に、会議を終え、迎えに来た車に乗り込み、港のフェリーへと向かった。どこまでも南へと下ると、やがて港に到着する。岸壁に着いている客船の巨大さに驚いた。三宅島へ行くときの船も大きいと思っていたが、私たちがこれから乗り込もうとする船はそれよりもはるかに大きかった。乗船名簿を提出して船に乗り込む。
 最上階の特等室は、マンションの個室あるいはビジネスホテルの客室という感じで、三宅島行きのときに乗る船底の二等の船室とは雲泥の差である。シングルのベッドが一つと、もう一つ上下二段のベッドがくくりつけられていて、それには梯子もついている。カーテンを閉めると寝台車に乗ったような感じである。
 妻と娘はバイキングの夜食に食堂に向かったが、私は不覚にも、すでに車の中で飲んだ缶ビールで酔いが回って動くことが出来なかった。船にはいつでも入れる浴場がついており、案内の放送では、窓から景色を見ることが出来ると言っていたが、窓の外は暗く何も見えなかった。あとで聞いた話であるが、ミニ映画館があり、娘は十分に楽しんできたという。息子の言っていたとおり、毎晩、入れ替わりの出し物がある劇場も付いた。三宅島行きの船とは異なり、かなりの豪華船であった。
 船の揺れは最初はたいしたことなく、エンジンの音がすごく響いた。それはまるで心臓の不整脈のようで、かつて一晩中苦しんだときの感じによく似ていた。夜も更けてから、船が揺れ出した。嵐でもないのに大きく揺れる。船の揺れは三宅島行きの船で慣れているはずだった。しかし揺れのパターンが異なるのである。おそらく船が大きい分、揺れの波長が長いのであろう。しかもときどき船が波にぶつかるドーンという音がする。このドーンという音も耳に聞こえるというよりは体に響くのである。そのようなわけで、明け方を除いてはほとんど眠れなかった。
 朝食は、後尾船室の食堂で、海の景色を見ながらバイキングである。その後、午後四時頃に船が仙台港に着くまでが長かった。空はどんよりとしていて、日本列島も姿を見せず、何の変哲もない灰色の海面ばかりが見える。太平洋のまっただ中に浮かんでいるという錯覚にとらわれて、妙に薄気味悪くなる。
 仙台港に到着し、船を降り、車に乗りこむと、一路、宿泊のホテルを目指す。仙台の市街地に入る寸前で、国道四号に入りどこまでも北に向かう。夕暮れ間近に田園地帯の一画にそびえ立つパークホテルに到着する。玄関を入り、ロビーで受付を済ませる。これまでに見たこともない豪華なホテルである。いつも利用しているビジネスホテルとはまったく異なる。夕闇の迫る窓の外には、北欧ふうの庭園が広がる。もう名古屋では咲き終わって見られないアジサイが咲きほこっている。湿り気のある空気の中で咲く赤紫や青紫の紫陽花はとくに映える。見るとそのわきの水路を水が滝のように流れている。前面は芝生で、奥は森林となっている。森林とは言っても、みな植栽したもので、私の目は誤魔化せない。地下の豪華なレストランは、この庭園に面しており、食事をしている間に、空は虹色から次第に闇へと変わっていった。
 私たちが食べているのは、どうやらフランス料理やイタリア料理ではなくスペイン料理のようである。ホテルのロビーには外国のサッカー選手の写真が飾ってあった。日本でサッカーのワールドカップが開催された時に仙台で対戦したのはスペインだったのであろう。このホテルはその選手たちの宿泊のために建てられたものに違いない。
 夢のような一夜を明かした後、いよいよ東北自動車道で青森へと向かう。夕暮れ間近に妻の実家に到着する。青森はいつもこの時期は肌寒く、祖父が暖房をつけた。テレビでは、十年ぶりの米の凶作を報じていた。今年はやませ(太平洋側から吹いてくる冷たい風)が毎日吹き、日照時間も少なく、稲の穂は実が稔らないという。イネはもともと熱帯起源なのを、品種改良を重ね、東北地方でも育つイネが栽培されている。だが、大きな気候の変化に対処しうるまでには至っていないようだ。宮沢賢治の嘆きがよく分かる。
 翌日は曇っていたが、娘と八甲田山へと向かう。娘は、去年まで、レンタカーに祖父を乗せ、青森中を走り回っているので道に明るい。最近出来たバイパスは青森公立大学の前を通過する。雲谷(もや)をやりすごし、萱(かや)の茶屋を抜け、酸ヶ湯(すかゆ)温泉に到着する。向かいには、学生時代に実習のために通った東北大学付属植物実験所がある。私は車を降り、雨風が吹きさらす中、ブナの豊作を確認する。今年は全国的にブナは豊作ようだ。その日は津軽半島まで車を走らせる。津軽のヒバ林を見るのだ。太宰治の実家が途中にあったが、立ち寄る時間はなかった。残念ながら、津軽半島の大部分は伐採されて多くはスギ林に変わっていた。
 二日目は下北半島の付け根にある夏泊半島を車で周回した。カシワの海岸林の写真を撮るためである。昔の写真がとても汚くなってしまったためである。残念ながら昔の場所は開発されて、カシワ林は消失していた。夏泊という地名は白鳥が飛来するところから付けられたのであろう。夏泊半島の突端にはヤブツバキが自生することで有名である。寒い地域でも海岸なので常緑広葉樹が生育出来るのである。
 三日目は、いよいよ下北半島である。津軽半島の先の方の蟹田(かにた)という小さな港からフェリーで下北半島に渡るのである。よく車が乗るというほどの小型の船で、客室もとても狭い。運行時間はほぼ一時間だが、私と娘はほとんど甲板で景色を眺めて過ごした。少し晴れ間が射し、陸奥湾はとてもおだやかだった。誰かがエサを投げ与えるらしく、ユリカモメが波しぶきとともにずっと付いてきた。一時はネパールに住み着いてしまうかと思った娘との船旅は最高の気分であった。
 下北半島の脇野沢から海岸線を走り、むつ市に入ってから恐山を目指す。かなり標高を上がった地点でブナとヒバの混交林に出会った。大木のヒバの根元でヒバが伏条更新(ふくじょうこうしん)しているのを見いだしたときは嬉しくなった。枝が地面に触れて発根して繁殖するのである。ブナとヒバがどのようにすみ分けているかという謎の解明に一歩近づいたような気がした。その日は延々と海岸線を眺めながら下北半島を下った。
 翌日は義母の墓参りをし、墓の草むしりをした後、青森空港へと向かった。娘たちに見送られて、旅客機が離陸をしたときは、外はすでに暗く、窓の外は厚い雲、雲、また雲であった。


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