新フィールドノート
−その74−



水戸
名古屋大学人間情報学研究科 広木詔三


 今日は十二月八日日曜日。雨こそ降らないものの、どんよりとした天気である。
 これから秋という十月下旬に山地で雪が降り、真冬並みの厳しい寒さが到来した。そのためであろう、今年は例年になく紅葉がひときわ美しかった。十一月の中旬以降には比較的穏やかな気候の戻り、紅葉した葉がなかなか散らず、かなり長い期間に渡って紅葉が見られた。
 アベマキやコナラのようなナラ類はほとんど赤くならず、葉は黄いろから褐色に変わる。余分な葉の養分を枝や幹に戻したあとは、葉は茶褐色となり枯死するが、その直前には緑から黄色へと微妙な移り変わりを示す。ソメイヨシノの葉が真っ先に赤くなり、やがてイチョウが黄色い葉に変わり、真っ赤なイロハモミジと黄褐色のコナラやアベマキの葉が色づくのは十一月も半ば過ぎてからである。
 十月の中旬に、穂高へブナの黄葉の写真を撮りに出かけた。これまですべて何らかの調査を目的とした出張であったが、今回はまさしく黄葉の写真を撮影することが目的であった。これまでの研究で、ブナはおおよそ六年ほどの周期で大量に結実することが分かっている。去年は一九九五年の豊作から六年目であった。だが不作であった。やっかいなのはブナの結実周期はササやタケの開花のようにきっかり六十年とかではなく、微妙にずれることがある。しかし今年も不作であった。これまでにも八年目に豊作になったことがある。来年は八年目なので、おそらく来年こそは豊作であるに違いない。
 ブナの豊作の年には大量の果実を生産する。果実に養分を回すと、葉に費やす養分がそれだけ少なくなり、葉の生産が抑えられる。ブナの豊作の年に、ブナの大木を見上げると葉が少ないので、まるで枯れ木のように見える。そこで豊作の前と後で、葉を着けている様子の違いを写真に収めようと考えたわけだ。
 穂高へ立つ日の天気予報は雨であった。日帰りは無理なので授業の終わったあと、高山に一泊して、翌日の朝に高山を立った。高山で見る空は、この原稿を書いている今日のようなどんよりとした日であった。草花の写真は曇りの方がよく撮れるというが、高い木の樹冠の撮影はそうはいかないであろう。雨の場合は、撮影も出来ず、今回の出張は徒労に終わるであろう。帰ってからも日程が詰まっているので、バスの中で祈るような気持ちになる。ところが幸いなことに、新穂高温泉街に着くころは日が照ってきたではないか。ブナの黄葉も素晴らしい。写真を撮り終えて、左股谷を下り始める。すると山の峰々には雲がかかり、冷たい風が吹き下ろし始める。ほんのひとときの晴れ間であった。
 穂高から戻るや、その翌日には筑波に立った。植生史学会が開催されるのであった。最初は出ないつもりであった。一つだけどうしても情報を得たい発表があった。シイの遺伝子解析に関するものである。筑波は不便である。東京からバスで行く手もあるが、今回は常磐線の荒川沖から入った。帰りは水戸まで足をのばし、姉の家に一泊した。
 目的はドイツ表現主義の絵を見ることである。姉の家から十分もかからないところに水戸芸術館がある。そこは私の小学校があったところだ。小学校の頃少々遠い気がしたものだが、今はすごく近く感じる。行ってみると当館ではドイツ表現主義展は行っていない、と言う。茨城県立近代美術館でやっていると言う。ええッ? 水戸に二つも美術館があるのか? 私が水戸を離れるまでは近代的な美術館はなかったのに。というわけで、私はもう一つの美術館を目指す。バスで駅裏方面に向かい、千波湖という湖のほとりで降りる。この湖は長さおよそ二キロメートルあり、近代美術館はその一方の端の湖畔に在った。
 以前に見たドイツ表現主義は色彩がけばけばしく、あまり馴染めなかった。新聞記事の解説を読んで、あらためて見ることにしたのだった。館内に入るとカンジンスキーをはじめ、赤や黄色の原色が自己主張している。画家の名前は忘れてしまったが、お目当の絵もある。赤や黄色で塗りたくられ、黒の太い線で囲われたグロテスクな男と女の裸体画である。時代背景について知識がなかったら、何という絵だろうと感じたに違いない。自らの絵筆をもったヒットラーがドイツ表現主義の絵画を退廃芸術の烙印を押した、と言われている。これら表現主義の流れを汲む絵は、ドイツの抑圧的な雰囲気の中で内面の情熱を形にしたものである。そのような時代背景のもとに見直すと、一見グロテスクな絵がまた違って見えてくる。
 このような作品群の中で、ある画家の作品はとくに注目を引いた。マリアンネ・フォン・ヴェレフキンというロシア系女流作家のものである。他の画家たちのような原色の鮮やかさは用いておらず、他の作品とはかなり異質である。彼女の作品の一つである『アーレンショープの断崖』は、海と岸壁を大胆な構図で対比させたものだ。厚い雲が覆った暗い空から光が洩れ、暗緑色の海原で紫の光となって反射している。彼女の絵は、他の画家たちと違って、鮮やかな色彩を使っていないが、確固とした構図の中で、大きな感情を呼び起こす。他の二つの『黒い衣の女たち』と『警察官ヴィソニュス』は、全く異なる光景であるが、やはり大胆で確固とした構図のもとに味わい深い色調が現れている。そして静かな画面が無意識のうちに感情に訴えかけてくるのである。『警察官ヴィソニュス』では、レンガ造りの洋風の建物が大きな画面いっぱいに描かれている。夜の薄暗がりの中にランプの光で建物が見える。建物の間を道が走り交番があり、道路上では何かが燃えているようだ。そのそばに警察官が立っている。たいへん静かな光景だ。人物は身じろぎもせず、何か感情が抑えられている感じがする。それにもかかわらず、不思議な感情を醸し出している。
 美術館を出ると、色づいたイチョウ並木が道の両脇に並んでいる。外はまだ明るい。いつもどうして絵を見たあとは景色が印象深く見えるのだろう。イチョウ並木をくぐって、バス通りへ出る。バス停に立つと、湖面がきらきら輝いている。周囲の木々がまだらに色づいていてシスレーの絵を見ているようだ。どんよりとくすんだ雰囲気の中で湖面が光っている。ジョギングしている人がいる。夫婦連れもいる。現実そのものが絵のようである。
 姉の家に戻る。チンチラの猫フクがいる。半年以上も会わなかったら、また人見知りをする。振られた恋人に対峙したときのような気分を味わう。慣れるまでは一晩かかった。一回り大きくなって、今では外出もするそうだ。裏の家の庭や緑の下でくつろいでいるという。なかなか外に出さないようにしているせいか、姉が外で見かけても知らん振りを決めこむというところが面白い。
 水戸を立つ前に、駅前の川又書店に立ち寄る。四階に理工系の専門書コーナーがある。春に覗いたときには、私の『里山の生態学』はなかった。そのときは古い生物学関係の専門書が売れずに残っており、こんな本が出版されていたのかと驚いた記憶がある。私の本は、なかなか見つからず諦めかかったときに、ふと目に入った。少々嬉しかったが、ずっと売れずに埃をかぶるか返本されるのが落ちであろうなどと考えると少々寂しい気がした。
 特急に乗り、電車が上野に着く頃にはすっかり暗くなっていた。


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