新フィールドノート
−その73−



敦賀
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 九月も下旬になると、あれほど暑かったのが嘘のように、朝晩の冷え込みが始まる。クーラーに慣らされた体は、夜の暑苦しさを感じて寝苦しい。寒暖の差に順応しきれず、風邪を引いてしまった。風邪を引いた当初は、それからひと月あまりも風邪に悩まされようとは、思いもしなかった。
 今日は、十月十三日の日曜日、秋晴れの青空が広がり、とても穏やかな日である。キャンパスを歩くと、キンモクセイの微かな匂いが漂う。だが、キンモクセイの花はもう散り始めている。今日は、かけはしを仕上げる日である。
 ソウルから帰って間もなく、八月二十四、五日と、敦賀市で開催された「全国トンボ市民サミット」に私は参加した。水辺研究会を主宰している國村恵子さんに誘われたのだった。國村さんはあちこちの河川で観察会の講師をして活躍している人である。トンボサットでは、名古屋市守山区の小幡地区でトンボのビオト−プを作った経験を発表するということであった。私がそのサミットに惹かれたのは、中池見湿地の見学ツア−が組み込まれていたからであった。
 土曜日の午後から始まるというのに、私は前日の金曜日には名古屋を立って、敦賀に出かけた。敦賀の駅に着くと、宿は駅から遠く、バスの本数も少なく、歩いた葉いいが道に迷ってしまった。ビジネスホテルに着いたときはすでに暗くなっていた。宿の近くには何もなさそうなので、駅までまた歩いて引き返した。途中敦賀湾に通じる笙(しょう)の川という一級河川を渡った。そういえば、道に迷って出くわした川であった。笙というのは、古代からある雅楽器の一つである。三日間で、私はこの笙の川を何度渡ったことだろう。
 敦賀駅周辺には飲食店がほとんどなかった。あっても早めに店じまいをしているではないか。夕食にありつけないのではないかとたいへん焦った。幸いに駅裏に小さな赤提灯の店を見つけた。妙齢とは言い難い二人の婦人が料理を取り仕切っていた。会社帰りの若い男女で賑わっていた。私は、おでんなどを注文し、冷や酒を一杯やって、暗い夜道をまた延々と歩いてのであった。
 次の日、観察会は午後からなので、お得意のフィ−ルドワ-クを行った。街並みを見て歩くのである。ところが、敦賀の街には飲食店街がほとんどないのであった。喫茶店もない。何という街かと驚いた。歩きに歩いて、気まぐれにふと入った横町の裏通りに「未完成」という名の小さな店を見つけた。喫茶店だった。中は画廊になっていて常連がたむろしていた。久しぶりにコ−ヒ−を頼んだが、一口だけにした。どうもコ−ヒ−は血中のアドレナリン濃度を高めるようなのである。すると決まって、心拍が乱れるのである。
 午後からは、バスで中池見湿地へ向かった。全国のトンボの大会だけあって、大人も子供もトンボ採りの網を抱えている。トンボは採り放題のようである。中池見湿地に到着した。二十七ヘクタ−ルという広大な湿地であった。たかが一日、トンボを採り放題採っても、トンボが絶滅することはまずないであろう。
 私は、トンボよりも、中池見湿地の成り立ちに関心があった。大阪ガスが、中池見湿地での液化天然ガス基地の計画を断念したのは今年の四月であった。中池見湿地は袋状埋積谷(ふくろじょうまいせきだに)という四方を丘陵で囲まれた特殊な地形をなしている。集まった地下水は一つの川となって東の谷に流れ出る。この川がきわめて緩やかに流れるので浸食がなかなか進まず、袋状埋積谷のような特殊な地形が長いこと維持されてきたのであろう。
 この中池見湿地を断層が走っていると、市民が指摘した。それを否定すべく、大阪ガスは調査を行った。すると、実際に断層が存在することが判明した。それで大阪ガスは撤退を余儀なくされたのであった。
 この中池見湿地には、トンボだけで六十九種類も見つかっている。水生植物も豊富で、イトトリゲモ、デンジソウ、ミズニラ、サンショウモ、ミズトラノオ、ミズアオイ等々の絶滅危惧種が生育していると言う。水田もあったが、今では放棄されている。大昔にはスギの大木が生育していて、その根を掘り取って水田を開くには相当苦労したらしい。面白いことに、数十メ−トルの深さで泥炭が堆積しているため、地盤が不安定で、水田が沈んだりして、維持するのが困難であったと言う。そのおかげで、湿地がすべて開発されずに残った可能性がある。現在では、このような湿地はほとんど残っていないのである。であるからして、大阪ガスの開発の手を免れたのはほんとうに幸運なことである。
 私は、中池見の観察会が終了した後、また例の喫茶店に寄った。川合画伯の絵が気に入ったのである。琵琶湖湖岸の休憩所を描いた絵があった。その明るい軽やかな色遣いを見たとき、私は、大原美術館で見たデュッフィ−の競馬場の感じを思い出した。別の絵は、雨上がりの雲が山々を覆っているものであっ山の手前には、雨に濡れた道や水田が広がっている。一面に、灰色がかった水色の世界が単色で広がっている。墨絵のような何とも言えない味わい深い感じを味わった。それから、桜の花が満開の街角の絵や、これが水彩画かと思わせる京都風の横町に流れる小川の絵などがあった。これが同一人物だろうか、と思わせるほど多彩で、その一つ一つがある種の境地に達しているものばかりであった。私は、その翌日も、大会終了後に、またこの画廊喫茶に立ち寄ったのであった。
 翌日は、富山大学の鈴木邦雄氏による「トンボの世界に遊ぶ」という記念講演があった。鈴木氏は、東京生まれの上の手育ちでおぼっちゃまで昆虫少年だった。と、氏自身が言う。そして、いかにトンボ採りに熱中したか、そしてまたいかに手練手管を弄したかという話をした。まさにトンボの世界に遊んだ話であった。その昆虫少年は、東京都立大で分類学を学び、そして今なおトンボの研究をしているのだと言う。
 九月の末に、京都で日本植物学会が開かれた。風邪が治らないままに出かけたので散々だった。宿では熱が出ても、着替えが無く、風邪をこじらしてしまった。講演を聞く気になれず、鴨川のほとりを歩いて過ごした。ヒガンバナが深紅の花を地上に出し始めているのに気づいた。日が暮れると、川べりの料亭に明かりが灯り、暗闇浮かぶ明かりは、「千と千尋」に出てくる湯屋を思わせた。宿で仮眠を取った後、バスに乗り、京都大学に向かった。道が混んで、懇親会には大幅に遅れ、私が会場に着いたときには、食べ物はまったく無くなっていた。
 十月一日から三日間、理学部の野外実習で穂高に行った。前の晩、熱が出て汗をかき、寝入ったのは明け方近くであった。何とか予定のワイドビュ−飛騨に間に合った。宿ではそれほど汗もかかず、心配した台風も関東地方をあっという間に通り過ぎ、翌日は晴れ間も見えた。その日一日歩き通したにもかかわらず、その晩も何とか持ちこたえた。毎年、夜に学生さんを相手に将棋を指すのが楽しみであったが、今年は用心して将棋盤を持って行かなかった。昔と違って十分な旅費も出ず、将棋をする楽しみもなく、おまけに今年のような辛い思いをするのなら、来年はもうこの実習をやめてしまおうかとまで思った。
 三日目は嘘のように晴れ渡り、私はひとりワイドビユ−飛騨号に乗る。車窓から見るヒガンバナは枯れ始め、色褪せていた。


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