新フィールドノート
−その72−



ソウル
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 いよいよ名古屋にも本来の暑さがやってきた。八月にも入ると、三十五度、ときには三十六度を超す猛暑が続く。大学院の入試が始まり、それも無事終了した。一つだけヒヤッとしたことがあった。試験当日、私は入試委員長として、九時前には顔を出さなければならない。最近は、年のせいで、夜中に何度も目を覚ます。前日の夜、なかなか寝つけなく、さすがに明け方の四時をまわる頃には焦りが生じた。七時に目覚まし時計のブザ−を消したことは覚えているのだが、ハッと気づくと八時がとうに過ぎているではないか。その日は緊張していたせいか、しばらくはうまく行っていたが、午後になると猛烈な睡魔が襲ってくるようになった。翌日、睡眠不足がたたって、出かける前に不整脈が始まりかけた。しばらく気を静めてじっとしてから家を出た。
 今年の三月まで、「里山の生態学」の出版に追われ、かなり忙しかったが、四月からは、それ以上に忙しくなった。月、水、金と一年生向けの基礎セミナ−を受け持ち、大学院の講義もある。新しくマスタ−一年を三人も受け入れたのはよいが、それぞれ研究テ−マがかなり違う。一人は、塩湿地に生育する二年生草本ハマサジの個体群動態の数理モデルを研究テ−マとしている。もう一人は、東海地方に分布するモンゴリナラが大陸のものと同じかどうかを遺伝子解析を通じて明らかにしようとしている。三人目は、湿地の遷移に関するテ−マで研究を行っている。あまりにもテ−マが異なるので、それぞれ別々にセミナ−を行った。基礎をほとんど学んでいない院生には、そのための時間も取らなければならない。七月半ばから、共通教育である生物学実習が入ると、月曜から金曜までほとんど埋まり、自分の時間がほとんど取れない状態が続いた。
 忙しいのは講義やセミナ−のためだけではない。今期は組合の仕事もある。その他にも、私は日本科学者会議の役員もしている。会議のため東京に出張することもある。八月十一日からは、韓国のソウルでの国際生態学会に出席しなければならない。このような忙しい合間を縫って、進化論に関する論文を何とか仕上げて投稿した。日本を発つ前日までに、何とか発表用のOHPを作成することが出来た。この二、三年は夏休みをほとんど取らなかったが、今年はまだ夏休みという感じがしない。
 ソウルの仁川(インチョン)飛行場にアシアナ航空124便が到着した頃はまだ明るかった。サッカ−のワ−ルドカップに合わせてつくられたその空港は、巨大な宇宙船を思わせた。ソウル市内に向かうリムジンバスに乗り込む頃は夕闇が迫ってきた。暗闇の中に海が見え、内陸部に入ると大きな川に沿ってバスは走る。川の向こう側には、明かりの灯ったビルディングが立ち並ぶ。やがてバスはディズニ−ランドを思わせるような明るく輝いた大きな橋を渡り、市街地へと突入する。噂どおりに、韓国のバスの運転は荒っぽく、常にクラクションを鳴らし続ける。ときおり聞こえるハングル語は何を言っているのかさっぱりわからない。外を見れば、ハングル文字の氾濫である。私は生まれて初めて異国の土地を踏んだのである。どこをどう走っているのか分からないが、すべて娘にまかせてあるので心配はない。
 宿は地下鉄の明洞(ミョンドン)駅から近い。宿に着いたのは夜の九時近くで、荷物を置いてすぐ夕食に出かけた。宿の反対側の通りに出ると、行き交う人の波であった。すれ違う人の顔は日本人とまったく変わらずハングル語が飛び出して韓国人と分かるのだった。日本人も多く、大半が日本人ではないかと思うほどであった。少なくとも宿では皆日本人だった。娘が前もって調べておいたように、注文した品以外に、何種類かのキムチを含めた惣菜が出た。カッスとかいうビ−ルはこれがビ−ルかというほどあっさりした味であった。これがまいにち毎日キムチやら何やら辛いものと付き合わされるうちに、飲みやすくなったのだった。もう一人の連れの山崎さんを含め、三人分の料理でテ−ブルはいっぱいになってしまった。
 翌日は、三人で有名な観光地である仁寺洞(インサドン)に出かけた。青磁やその他の工芸品などを売る店が並び、細い路地を入ると、伝統茶屋が立ち並び韓国でもっとも有名な通りであることを伺わせる。
 午後から三成(サンソン)の国際会議場に行き、受付に行くと、私の名前はない、と言う。少々時間はかかったが、姓と名が入れ代わっていことが判明し事なきを得た。広い会場で数多くのセッションがあるため、私のセッションのまとめ役である大阪自然史博物館の佐久間さんには会えないでしまった。
 夕方にはまたもや仁寺洞に行き、三人で夕食を取った。座敷に上がると、大きなテ−ブルがいくつか並んでいる。その一つに陣取り、料理をいくつか注文すると、前菜とともに、野菜が大きな器に山盛りになって出てきた。広いテ−ブルいっぱいにキムチやらのたくさんの皿が乗った。旅行案内書に、頼みもしないものがたくさん出てきても驚くな、と書いてあったことを思い出した。オモニ(おばさん)がやってきて、野菜をわしづかみにして、その上にご飯や豚肉を乗せ、さらに赤くて辛いたれをつけ、それを娘の口にぎゅうぎゅう押し込んだ。娘は最初驚いたが、すぐさま「おいしい」と叫んだ。それがその食べ方だった。
 翌日、宿から地下鉄を乗り継ぎ、四十分ほどかけて会場に行った。私たちのセッションの部屋には、ほとんど日本人しかいなかった。里山がテ−マでは、それも仕方がない。企画をした韓国人も忙しく参加出来なかった。一人の欧米人が、私たちの議論は楽観的に過ぎる、という批判をした。我々のセッションは里山の多様性の保全がテ−マであった。彼の指摘は、気候の温暖化が進めば、人間の努力如何にかかわらず、種の絶滅は進であろう、ということだ。それも一理ある。誰も反論しないので、私は、たどたどしい英語で、次のような意見を述べた。過去の大きな気候変動を多くの動・植物が生き延びてきた。それには分布の広さが重要で、分布域の広いものは生き残るが、狭いものは絶滅せざるを得ないであろう、と。すると、その外人はそれは人間のいない時代のことだ、というような反論をした。佐久間さんは時間を理由に、議論をうち切ってしまった。夜は三成の近くの韓国料理店で打ち上げをした。鶏肉にご飯が詰められた参鳥湯(サムゲタン)なるス−プは味が良かった。
 翌日、佐久間さんの案内で、道峰山(ドボンサン)の国立公園に出かけた。鈴鹿の湯ノ山温泉の谷川のような景観で、大勢の子供連れが渓流で遊んでいた。ソウルは日本の東北地方の緯度と同じくらいで、比較的涼しい。ただ、年間雨量が少ないのでブナ林は成立しないと言われている。目指すモンゴリナラに出会い、葉を採集した。山崎さんの研究材料なのである。モンゴリナラのどんぐりも拾うことが出来た。そのどんぐりは、東海地方に分布するものとまったくそっくりであった。私の仮説が直感的に正しいと感じた。東海地方に分布するナラは、氷期に朝鮮半島を渡ってきたのだ。人間と同じように。
 私はしばし、日本列島と朝鮮半島の繋がりの古い歴史に思いを馳せた。


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