新フィールドノート
−その70−



古川
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 今年は桜の開花がかなり早まった。名古屋大学のキャンパスでは、三月二十三日(土曜日)に三分咲きとなった。翌二十四日は、晴れてはいたがつめたい風が強く吹き、寒いほどであった。花冷え、と言って桜の花が咲く頃に寒気が戻ることがよくあるのである。
 この日、私は名古屋を発って仙台に向かった。日本生態学会に出席するためである。新幹線に乗り、横浜を過ぎる頃から桜が目立ちはじめた。横浜から東京にかけては桜が満開のように見えた。名古屋よりも気温が高いのであろうか。
 東北新幹線に乗り換え、関東平野を抜け、郡山、福島と進むにつれて、桜の開花は目立たなくなった。仙台に到着したときには夕闇が迫っていた。仙台ではまだ桜が開花していない、ということにはこの時点では知るよしもなかった。
 宿泊の予約をしていなかったので、駅の構内の電話ボックスの電話帳をもとにビジネスホテルに電話をかけた。次から次へと二十回ほど掛けたが全部断られた。これまではたいてい何とかなったのである。隣町の長町もあたってみた。やはり満員だった。少々あせりを感じてきた。そこで古川に泊まったことがあるのを思い出した。電話すると空いていると言う。
 そこで、また東北新幹線に乗り、次の古川で宿を取った。仙台での宿を探すのが面倒なので古川で四泊もすることになった。自由席で片道千五百円である。乗っている時間はたった十三分であるが自由席なので立ち通しである。指定席を取ると、どういうわけか千円の追加となるので、四日間とも往復立ち通しであった。古川から仙台まで、新幹線で通勤している人も多い。デッキはいつも満員である。
 初日は午後からの開始であったが、昼前に早々と受け付けを済ませ、私はある目的である場所に向かった。その目的というのはかつての下宿先を尋ねることであった。仙台に住んで、十回ほど住みかを変えたが、その下宿は、一度は尋ねようと考えていたものだった。最初の下宿は大学からかなり遠いということもあったが、夏休みを過ぎる頃から同宿の学生たちと親しくなり、大学が間遠になってしまったことは、すでにかけはしに書いたとおりである。
 タクシーの運転手がどこまで行けばよいのか、と聞くのだが私もよくわからないのである。広瀬川を横切る大きな橋が出来、どうも昔の通り道が思い出せないのであった。愛宕山という小高い山の麓であることだけは覚えている。そこで、反対側の愛宕神社の入り口まで行ってもらうことにした。一度だけあるのである。下宿から山道を登り、てっぺんの愛宕神社に出、そして石段を下りて反対側に出たことが。
 タクシーを降りて、神社に向かう細い道を入ると、一度だけ降りたことのある石段は、当時のまま存在していた。ただ一つ違うことは、今度は下から登るという点である。石段を登り詰めると、境内の向こうには仙台の街並みが見渡せた。眼下には曲がりくねった広瀬側が横たわっていた。私は学生時代になにをしていたのかという悔悟の念が湧き起こってきた。こんな素晴らしい眺望の得られるところが間近にありながら、たった一度しか訪れたことがないのであった。私は、当時は、里山どころか生物学そのものも専攻するかどうかは知るはずもなかったのであった。
 神社の境内をやり過ごして、反対側の尾根道に出る。その尾根道の両側はかなりの急傾斜となっている。どうしてこんな地形が残ったのか不思議である。狭い尾根道の両側にわずかに残った雑木の隙間から、左手に仙台の街を、そして右手には大年寺山を眺めながら尾根道を下る。その尾根道には石段があった。以前に登ったときは、石段はなかったはずだ。何か変だと思いながら降りていくと、視界が開けて先ほどタクシーで通った広い道路が見えるではないか。どう探しても、私の住んでいた下宿は見つからない。
 名古屋の八事のバス停前に、私がかつて住んでいた下宿の建物に似た家がある。明治時代の洋館風で、毎日バスから眺めるたびに一度仙台の下宿をもう一度見たいと思っていたのだった。私はしばらく呆然としていた。夫婦と男の子二人の家族では、広い屋敷をもてあましていたのであろう。私の借りていた部屋は十畳もあった。その頃は本もほとんどなく、机もなかった。この下宿に引っ越してからである。ほとんど付き合う友達もなく、大学の生協で三度の食事をするだけの日が続いたのは。
 虚しい思いに囚われながら、広瀬側を渡った。川辺のヤナギが黄色い芽を吹いていた。途中一番町を通ったので丸善を覗いたが「里山の生態学」は店頭に出ていなかった。それは発行後まだ間もないせいであることが後に分かるのであった。
 生態学会の会場に到着し、書籍販売のコーナーを探すと、多くの書店が店を開いているのに佐久間書房だけがまだきていなかった。佐久間書房が「里山の生態学」の販売を行うことになっていたのである。翌日の昼頃にのぞくと、「里山の生態学」はほとんど売り切れという状態で一冊しか残っていなかった。担当者は、売れると思わなかったので三十冊しか用意しなかったという。またその翌日に顔を出すと、追加の二十冊もほぼ売れたということであった。名大出版会に申し訳が立って、ほっとした。
 多くの知り合いから、本の出版のことで声を掛けられた。これまで私を無視していたような人まで声を掛けてくるので、私は一躍有名人になったような錯覚をおぼえた。名大出版会が生態学会の会員全部に本の案内のチラシを送ったのであった。ハリー・ポツター第二巻に出てくるギルデロイ・ロックハートになったような気分を味わった。彼は、とてつもない自惚れ屋でハリーの人気が気になったり、最後の肝心の場面で勇気がなく破滅に陥るというキャラクターではあるのだが。
 古川の宿には、新幹線でなく、よっぽど松島経由で帰ろうかなと思った。かつて新幹線のない時代、古川まで鈍行で通った時があるのである。東北本線に乗り小牛田で陸羽東線に乗り換える。小牛田から古川まではすぐである。当時、古川には祇園時高校という私学があった。見渡す限り田圃の中を電車は走るのであった。当時、多くの大学院生が非常勤で雇われていた。その中で結婚したものもいる。女子生徒二人から手紙を貰ったり会ったりしたこともあった。そういう思い出のある土地なのである、古川は。私にもそういう時代があったのである。情熱の沸き立つような時代が。
 もしも父親が出てきて、娘を連れ去るようなことがなかったなら、私はその娘と一緒になっていたであろう。人生の運命は分からないものである。  新幹線が出来てからの古川は昔の面影がまったく認められない。新幹線の駅は、陸羽東線の駅とくっついているのだが、両者の線路は直交しているため、新幹線を降りて駅を出ても、昔の名残はまったくない。聞くところによると、祇園寺高校というのは経営者が変わったらしく名前も変わってしまったという。
 宿の近くで、三月いっぱいで店じまいというスナックに出会った。このことは機会があったらお話しよう。
 名古屋に戻ると、急に暖かくなり、桜は散り始めていた。


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