新フィールドノート
−その69−



レポート採点の苦労
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 2月に入って、突然暖かい日がやってきた。今年は、梅の花が一週間ほど早く咲いたということである。温暖化の一端を垣間見たようでもある。しかし、安易な解釈は、科学者として禁物である。もともと気候は変動が大きい。11年サイクルの太陽黒点活動の周期も考慮しなければならない。そうではあるが今年の梅の咲き具合は別としても、地球の温暖化が進んでいることは、ますます明らかになりつつある。
 温暖化の要因には様々な事柄が関わっている可能性があるが、大気中の炭酸ガスの濃度が増加し始めていることは早くから知られていた。1950年代の終わり頃から、ハワイ島のマウナロア山で大気中の炭酸ガス濃度が調べられている。その増加の割合は1970年頃から高まっている。私は、今から20年以上も前から、一般教育(現在の共通教育における主題科目の前身)で、この問題を取り上げてきた。当時は、炭酸ガスの容積密度が330ppmほどであった。確か、中学校の理科の教科書には、大気中の炭酸ガス濃度は三パーセントと書かれていた。私は考えた。もし、このまま炭酸ガス濃度が増加すると、教科書の値を書き換える必要が生じると。驚くべきことに、いま、手元の最新の資料を見てみると(吉良竜夫さんの『森林の環境・森林と環境』新思索社)、何と、炭酸ガスの容積密度は350ppmに達しているではないか。しかも、それは1988年のデータにもかかわらず。私の知り合いの多くは、このことをたいへん重大視している。愛知万博も現在の計画では、炭酸ガスの大気中へのかなりの寄与となるらしい。
 科学者たるもの、推測でものを言ってはいけない、ということはそのとおりである。しかし、現在の考え方は、不確実だったら何をしても良い、といことにはならない。どういうことか、と言うと。炭酸ガスの濃度の増大が及ぼす影響は、危険性は考えられるが、具体的には何が生じるかは予測が出来ない。これまでの考え方では、だから炭酸ガス濃度の増大を押さえるべき、とは必ずしもならなかった。しかし、何らかの危険性が予見されるときは、そのことの安全性を立証しなければ、当該行為は認められない、というのが現在の不確実性に対する対処の仕方なのである。炭酸ガスによる地球温暖化の問題は、その影響は単なる不確実性では済まない段階に達していると言わざるを得ない。この問題で、アメリカは自国の利益を最優先して、傍若無人に振る舞っていることは、よく知られた事実で、大いに糾弾する必要がある。
 今、レポートの採点の合間に、息抜きを兼ねてかけはしの原稿を書いている。150近くものレポートを一気に目を通すと、頭がおかしくなる。その採点の前に、出欠を確認しなければならない。毎時間ごとに授業の終わりに感想文を書いて貰っており、それをもとに出欠を確認するのだ。一回ごとに記録しておけばよさそうなものだが、直前になってまとめて行うと大変である。150近くの用紙を13〜14回仕分けしなければならないのである。実習室の広い机を借りて仕分けするのだが、いい運動になる。ということは、昨年来の健康状態からするとかなり危険な仕事でもある。昨年までは、締め切り間際のぎりぎりで行っていたが、今回は、用心して、体調に合わせて少しずつ仕分けを行った。以前は、仕分けに時間が取られて、レポートを十分に読むことが出来なかった。いつも、これはというレポートを選り分けて、後でじっくり読み返そうと思うのだが、一年はあっと言う間に過ぎて、また仕分けが始まるのであった。ちなみに、字数は4000字以上である。
 名大出版社から刊行予定の、「里山の生態学」が、間もなく刷り上がる。遅れに遅れて、やがて1年が経とうとしている。初稿を入れて、ホッと一息と思いきや出版会から、間違いや怪しい箇所が指摘され、その修正やら、訂正やらに追われる。文献の追加もしなければならない。10人以上の共著者の分まで面倒を見なければならない。原稿の遅れている人には催促をしなければならない。と言う間に、再校が刷り上がってきた。また、そのチェックである。口絵の写真を揃えなければならない。表紙の写真も探さなければならない。良いのが見つからないのでこれから写真を撮影してくる、と言ったら、出版会から、そんな時間はない、とクギをさされてしまった。ぎりぎりのスケジュールで、3月20日に刷り上がらないと、日本生命財団からの援助がストップするというのである。これまでも、土日のない生活が続いていたが、現在は息つく暇もない。メールを開けるのが怖いくらいだ。担当の神舘さんから何かしら注文が来る。
 今年はラッキーだった。私についている大学院の修士課程の院生が一人もいないからだ。卒業研究の面倒を見ている学生が一人いるだけだ。彼は、優秀なので、自分で実験計画を立て、自分で研究を進めている。ときたま、進行具合を聞くだけである。それでも、この時期は何かと忙しい。出席しなければならない修論の発表会もある。そのうち、大学院の二次募集もある。教授会やら、主任会やら、学部長や総長の選挙やらもある。
 今、修士の発表会を終えてきたばかりである。気象学や地震学関係の私の専門とは遠く離れた発表を2時間以上も聞いたので、たいへん疲れた。現在は博物館に所属している西川先生のもとでホヤの研究をしている谷口君の発表は、動物の話ではあったが、たいへん興味深かった。三河湾と伊勢湾に生息するホヤの分類学的研究と生物地理学に関するものであった。何と、終わったのが午後の7時過ぎであった。これからまた、レポートの採点である。
 まず、欠席の多いものは不可をつける。ただ、レポートの内容が格段に優れている場合は、ほとんど出席していなくても合格にすることもある。最近はパソコンで書いてあるものが多く読みやすいが、手書きで書いてくるものも結構いる。金釘流でも丁寧であれば評価には影響しない。肝心なことは、どれだけ努力したか、という点である。テーマに合った参考文献をどれだけ駆使しているか、また主張が合理的で、資料に裏付けられているかをチェックする。かつては何度も読み返したが、今はほとんど瞬時に判別しうる。参考文献なしに、独断と偏見を読まされるのは辛いが、私の見解に合わないからと言って、評価を下げるようなことはしない。
 毎回の感想文は、出欠のためではあるが様々な情報が得られる。今日は寝てました、とか正直に書いてくるものもいる。出欠を取るのを止めよ、という意見もあった。出欠のためだけに出て、寝ていたりおしゃべりをする者が多く、学問する環境にふさわしくない、と言うのだ。一年生ではなく、学部の授業に触れた学生の言である。おそらく彼は、学部の講義に触れて成長したのであろう。
 おしゃべりは毎回注意するのでそれなりに静かである。スライドを使用するので、居眠りは防止できない。しかし完全に寝ている学生はごくわずかである。ときどき仄めかすとネコのように顔を上げるものが多い。私を励ます意見も結構ある。最後の授業で、『一生懸命授業をして下さって、ありがとうございました。多くの人が眠りがちななか、本当にご苦労様でした。』という感想があった。


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