新フィールドノート
−その68−
学問と研究の自由における冬の時代到来す
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三
このところめっきり寒くなってきたと思っていたら、今日は雪がちらついてきた。十二月の半ばに雪が降るのは近年では珍しいのではないだろうか。今日は十二月十五日の土曜日である。つい最近まで色づいていた雑木林の木々の葉も落ち始めている。よく見ると、中にはまだ黄色い葉を着けている木立もある。おそらく葉の中のキサントフィルがまだ分解されずに残っているのであろう。つい数日前に、東山丘陵の雑木林を撮影してきたばかりである。そのときは、まだ多くの樹木が葉を着けていたが、今にして思えば、その日が撮影できる最後のチャンスだったようだ。雑木林の写真は、出版予定の「里山の生態学」という本の口絵にカラーで載せるのである。
雑木林の撮影はそう簡単ではない。家を出るときは晴れていても、雑木林をいざ撮影しようという段になって雲に覆われてしまうこともある。十一月に入ると、名古屋市内の雑木林も色づいて来る。十一月も半ばを過ぎると、アベマキやコナラの葉が黄金色に輝いて見えるようになる。クロロフィルが分解されて、緑の葉が黄色くなるが、黄色い葉に混じって緑の葉がほんの少し残っているような時期に日の光を浴びると、雑木林は黄金色に輝きだすのである。しかし、それは適度に離れた距離から見た場合に限る。間近に見る雑木林は、いろいろ欠点が見える。
今年の十一月の半ばに、いちど撮影にチャレンジしたことがある。家から見る周辺の雑木林は、例のごとく黄金色に輝いて見えた。しかし、近づくにつれて、その輝きは消えてしまう。断片化された雑木林は哀れな姿をさらけ出してくる。電線も邪魔をする。近づいて見ると、どれもこれもあまり美しくない。雑木林の撮影は不可能ではないかとさえ思えてくる。これまでの数年間も、雑木林の撮影には成功していない。今年も撮影できずに過ぎてしまうかなと諦めかかっていたのであった。今年の秋は出版を控えた最後のチャンスなのであった。
本当は、写真を撮影しているどころの話ではないのである。出版社からは毎日のように原稿の催促を受ける。原稿はほぼ出そろったが、今度は図表を完成させなければならない。それもようやく完成して提出し終えた。今度は引用文献である。私の分は揃っているが、私の他の十一人の共著者のものを揃えなければならない。各人が送ってきたものを統一規格に直して、一人ずつ全体にまとめていき、さて十一人目に入って間もなくのことだった。最後の一人はやけに文献の数が多く、ちょっと嫌な気がした。十一人目のデータを入れている最中に、何と、これまでの文献が消えてしまったではないか!真っ青になった。早速、名大出版会に断りの電話を入れた。その日のうちに文献を持参する手はずだったのである。事情を話して、文献の仕上げが今日中には無理であることを告げると、若い担当者の神舘さんは、「仕方がありませんね。気を落とさず頑張って下さい。」と、励ましてくれた。
本の発行予定は大幅に遅れており、日本生命財団からは、今年度内に印刷された本が届かなかった場合は、本の出版の助成金は出来ません、と警告を受けている。そのような逼迫しているなかで、執筆の合間を縫って、写真の撮影に取り組んでいるわけである。
雑木林の撮影に成功したのは四日前のことであった。その日は晴れて雲ひとつ無かった。家の近くには、適当な雑木林がないことがわかっていたので、名城大学の裏手を回って東山丘陵の雑木林に挑むことにした。たいして期待はしていなかった。八事霊園が見えるあたりに近づくと、広く景色が見渡せる空間があった。尾根部の雑木林が見渡せた。なかなか眺めが良いのであるが電線が邪魔をしている。近づくと、こんどは住宅が並んでいて雑木林は隠れてしまう。それでも諦めずに探しつづけると、空き地が見つかった。人の住んでいた跡らしいが、建物はきれいになくなっていた。手前の家で、写真を撮ることを断り、その家のわきを通り、その空き地に出た。適度に黄葉したコナラの木が並んでおり、ようやく念願の雑木林の写真を撮影することが出来たのであった。その日は風が強く、風が吹くたびに、枯れ始めたコナラの木から、葉が舞い散るのであった。今にして思えば、その日は寒い北風の吹く冬の到来の前触れであった。
撮影をした地点は、名古屋市天白区の東萱野町というところであった。バスが通っていないので、そのまま歩いて八事の自動車学校のわきを通り、八事のテレビ塔をやり過ごし、日赤病院の裏手に出て、そして名古屋大学に着いた。この一年、心臓がおかしくなって以来、ほとんど歩くことを止めていたが、何と、この日は、通常でも一時間半は掛かる距離を歩き通してしまったのであった。南部生協でユリカカードを買った後に、書籍部をうろついていたところ、名大出版会の橘さんにばったり出会い、「先生、頑張って下さいよ。」と、催促を受けてしまった。私は、慌てて、カメラを見せて、ほら、このとおり、本の口絵の写真を撮るために写真を撮ってきたことを弁解がましく説明したのであった。
この原稿を書いている最中に思わぬハプニングが生じてしまった。何と、かけはしの今まで書いていた原稿が消えてしまったではないか。この原稿は改めて書いた二度目のものである。今消えたものと同じ内容を書こうとすると、ショックのせいで何も思い出せない。気分が乗って書いたものは調子が良い。それを一字一句再現するなんて不可能である。
今日は日曜日。かけはしの原稿が消えてしまってから二日後である。NHKの将棋番組を見ると、今日は羽生四冠王である。これは見逃せない。今日も、きわどいせめぎ合いの後、落ち着いた判断でしのいで勝利を収めた。
ところで、今日は娘がネパールから半年ぶりで帰国する日である。迎えに行かなければならない。一方、かけはしの原稿の締め切りは過ぎている。新年号は年内に印刷を仕上げるために締め切りを早くするのだと言う。もっと早く言ってくれなきゃ。
今日は二千二年一月XX日。皆さんがこの原稿に目を通す頃には、年が明けているわけだ。
昨年はアメリカの貿易センターのテロが起こり、アメリカは報復のためにアフガニスタンへの空爆を開始した。二十世紀は世界的に核兵器の廃絶に向けて大きく前進した年であった。それなのにまたもや武器や戦争できなくさい臭いがし始めた。わが国は自衛隊を戦後初めて海外に派兵してしまった。平和をとり戻すためにはまた多大な努力が必要とされるであろう。
戦後、高度成長を遂げた日本の経済界は、巨大な力をもち、今や、国際競争の名のもとに、大学の研究を経済界の要求に合うように国立大学の独立行政法人化を押し進めようとしている。大学には、もはや学問の自由を守る力はなく、文部科学省のなすがままである。
一方では、文部科学省は、大学再編の圧力のもとで、教育系大学を戦前の師範学校のように時の権力に従う教育制度を押しつけようとしている。
私たちは、専門分化の進んだ狭い研究領域のみに目が行きがちであるが、私たちの研究の自由が奪われようとしている今日、個々の利害を超えて、学問・研究・教育の自由のために、新しい共同を模索する必要があるであろう。
前回
メニューへ
次回
新フィールドノート
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp