新フィールドノート
−その67−
飛弾高山でのひととき
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三
暑い夏も峠を過ぎ、九月半ばに深紅のヒガンバナを見かけると、朝晩いくぶん涼しくなる。今は、十月も半ばで、あちこちで、そろそろ紅葉が見られる頃である。
今日は、日曜日。午前中は、大好きな将棋番組をNHKで見る。本の原稿もほぼできあがりこのところ、少しばかりゆとりがある。忙しいときや、フィールドで出張のときは見ることが出来ない。一時期は、見れないときはビデオに撮ってもらったこともあるが、忙しいと、そのビデオを鑑賞する暇もない。若い頃のように、夜中に見るという芸当も出来ない。もう、まったく無理がきかないのである。
お気に入りの谷川浩司や羽生善治のときは、何としてでも見るようにしている。勝ち負けの勝負の世界だが、そこに個性が現れる。若くして名人となった二人の感性は抜群である。将棋の世界は奥が深い。NHKではプロが解説をしてくれる。この解説がないと、よほどの高段者でないと、アマチュアには指し手の意味が理解できない。高段者になればなるほど奥の深さが分かってくるのである。
コンピューターの技術が進んで、将棋については、アマチュアの高段者レベルにまで達していると言う。私は、コンピューターの最高レベルにはかなわないであろう。でも、プロには今のところまったく及ばない。チェスの世界では、世界の名人、ガリ・カスパロスがコンピユーターのディープブルーに負けたことは周知の事実だ。だが、コンピユーターは別室に置かれていたと言う。コンピューターには、まだ弱点のある可能性があり、チェスの高段者がそれをカバーしていた疑いがもたれている。IBM社は、カスパロフの再挑戦を避けたままである。将棋の世界においても、プロの指した棋譜をコンピューターに覚えさせると、コンピューターの棋力はどんどん上がるそうである。しかし、人間のように、新しい手を創造することは出来ないそうである。
午後からいきつけの床屋に行く。今日は、奥さんの担当で、狂牛病が話題になった。これが旦那の方だと、最近のテロ事件が話題となるはずであった。奥さんの話によると、ついに牛肉を食べない方針を決定したそうである。スーパーでも上等の肉が束になって安売りされているそうだ。床屋に来るお客の中には、この際だから、松阪牛などを安くたっぷり食べたいという人もいるそうである。牛肉専門店などは、商売が成り立たなくなっていると言う。私は、この間、本の原稿書きに追われて、世情に疎くなっていたが、たいへんな事態なのだということを思い知らされた。しかし、どうなのだろう、マスコミによる風評被害も大きいのではないだろうか。
現在の政治の腐敗と、それに対する批判を封じ込めるマスコミのあり方は、なかなか目には見えにくい。小泉首相を支える国民の人気はマスコミによって演出されたものと思われるが、この小泉首相のもとで、自衛隊が軍事行動を起こすのを制止できない雰囲気がつくられつつある。かつては大学が、世相の批判の中心たりえたが、今や、大学に、そのような力はほとんどない。そどころではない。国立大学は解体される寸前である。私たち大学の人間が、主体的に大学を改革するのではなく、文部科学省という行政の方針として改変を迫られている。マスコミは、それがどのような意味を有しているのかご存じない。民主党は、大学の民営化を押し進めようとしている。それが国民にどのような災難をもたらすかにはまったく目を向けようとはしない。私も、目先のことに追われて出口は見えない。
このような息苦しい日常ではあるが、最近、私は映画を見た。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」である。夏休みの間は見ることが出来なかったので諦めていたところ、つい最近見るチャンスがあった。受験戦争に駆り立てられ、将来に対する展望を見いだせない子供たちの灰色の世界。その中から生きる力を見いだせ、と励ます宮崎駿。さすが宮崎駿である。親から離れて、迷い込んだ魔女の支配する世界。そこから生きて帰るために、負けずに働け、という。これは現実である、と駿は言っている。この映画から生きる力を自分で見いだせ、と言っている。実際の現実は、もっと複雑で、多くの場合は、それほど幸運は起こらない。これはあくまで映画であり、芸術である。真実を暴く力はあるが、実際には、個々の子供は現実と格闘しなければならない。いや、人ごとではない。この千尋の神隠しの世界は、私たち大学の世界でもある。失礼ではあるが、かの総長が湯婆婆に見えなくもない。いや、現実はもっと複雑である。しかし、大学の現在の状況は、あの湯婆婆の支配する湯屋のような世界となりつつある。自分の歩んできた研究の道が否定されようとする状況は、灰色という点で、まさしく似たような状況なのである。改革という名のもとに、私たちは豚にされているような気がしてならない。
十月の三、四、五日と、理学部の野外実習に出かけた。例年は、希望者が多くて困るほどなのに、今年は、参加者が半分以下のたった六名であった。しかも女子はいない。それにもかかわらず、少人数のため、質問が多くでたりして、例年になくやりがいのある実習であった。今年は体調が悪いので、いち時は、実習を引き受けるのを断ろうかと考えたほどだったのである。
いつものように左俣のブナ林と右俣の渓谷林を観察するだけの何の変哲もない実習である。ただ、最初の晩に、私のこれまでの研究成果をスライドを用いて説明するのである。自然は複雑きわまりない。その自然を複雑なまま眺めても何も理解できない。ただブナ林が存在する、というだけでは話にならない。森林が多くの樹木から構成されていて、それぞれの種が特有の繁殖戦略を有していること。さらに、それらが厳しい競争を経て、森林がダイナミックに維持されていることなどについて解説する。通常の講義では、お話に終わってしまうが、そのような理論をもとに現場を見て貰うのである。
今年は、秋の深まりも早く、ブナの実はすでに落ちていた。今年は六年目の豊作のはずが、予測ははずれ、不作であった。
三日目は、動悸がするので、一人、宿で二時間ほど仮眠を取り、十一時近くに挨拶もそこそこに宿を出て、バスに乗り、高山に着く。高山市街で昼食を取った食堂は、観光目当ての感じではなかった。七百円の日替わりランチのサービスのよいこと。店のマスターは、常連客相手に話をしている。アケビやサルナシの話をしている。風邪を引いているという客にサルナシを酒に漬けたものを飲ませたりしている。「今の人はヤマブドウをすっぱいうちに取ってしまうんだよね。あれは、雪が降るまで寝かせておかなければだめなんだよ。」と言う。私は思いだした。手塚先生が「ブドウはリンゴやバナナのように青いうちに取ってエチレンをかけて熟させることが出来ない。」と言ったことを。私はいつか内海隆一郎の世界に浸っていた。出発前に、名駅の三省堂で、内海隆一郎の「鰻の寝床」を手に入れたのである。東京の新橋を中心に、寿司屋やテンプラ屋の飲食店をめぐる夫婦や親子の話である。たいへん面白く、行きの特急で、読み終えてしまった。高山の食堂で、ひととき、内海隆一郎の世界に浸った。
特急のワイドビューひだ号の窓から見る景色は、行きは稲の穂が黄金色に輝いていたのに、帰りには、イネはすべて刈り取られていて、田圃の輝きはすっかり消え失せていた。
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