新フィールドノート
−その64−



門司港
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 今年の日本生態学会は熊本で開かれた。時間の節約のために飛行機で行くことも考えたが、予約もせず、やはり新幹線で行くことになった。名古屋を立ったのは3月25日の日曜日であった。その前日には、情報文化学部の謝恩会が開かれた。
 謝恩会の案内が、だいぶ早くからメ−ルに入っていたが、学会の日程の関係で、私は返事をしないでいた。つまり、出席しないつもりであった。教官の出席がきわめて少ないので、謝恩会の再度の案内のメ−ルが届いた。謝恩会の日は、学会に出かける前日だったので、出席することにした。謝恩会というものが開かれたのは今回が初めてであった。私にとって、この謝恩会は、重要な意味をもっているのだった。
 私は、昨年の四月から、情報文化学部から人間情報学研究科へ配置換えになった。これまで情報文化学部と人間情報学研究科は、組織は異なるがもとの教養部を母体にしていたので、研究と教育を一体のものとして行ってきた。今年から、私は、情報文化学部には関わらないことになったのである。だから私も今年の卒業生と同じような立場にあったので感慨もひとしおであった。
 謝恩会は夕方の七時から、開かれた。会場は、名古屋駅の通りに面した住友会館というビルの最上階であった。会場の入り口には、二人の女性が案内係りとして立っていたが、まったく見知らぬ女性なので、どういうわけか場違いな気がした。受付も女性で、見知らぬ顔であった。それもそのはず、出席者の多くは社会システム情報学科の学生が多く、私はまったく関わりがなかったからである。会場には他の五名の教官がすでに来ていた。
 会の進行が始まるまで、外の夜景を眺めると、全面ガラス張りの窓からネオンサインや車の明かりが見えた。地上は、ずっと下に見下ろせた。
 元気のよい司会者が、これまた女性であるが、挨拶をした。見回すと、女性の方が数が多く男性陣はなんだか隅に追いやられているような気がした。たしか、四年前、情報文化学部が新入生の歓迎会を開いたことがあった。そのときも社会システム情報学科の女性陣がたいへん賑やかだったという記憶が蘇ってきた。ところで、四年前の、まだ高校を卒業したてのあどけない感じは、いまや望むべくもない。出席している多くの男女は、普段キャンパス内で見かける学生の雰囲気ではなく、なんとなく大人っぽい感じであった。
 私以外の教官は、情報系のスタッフで、多かれ少なかれ授業で接しているらしく、あちこちで教官を取り囲んで談笑が聞かれるようになった。一人きりでいた私のところに、企画と案内を担当した一人の女性が来て、出席したことへの礼を述べた。それをきっかけにとりとめもなく話をしているうちに、私は、彼女と会ったことがあると感じた。そうそう、昨年、私は教務委員として三年生の教育実習の監督をしたのだった。監督とは言っても、最後にレポ−トを点検し、意見・感想を聞くだけのことであったが。私が、その話しを持ち出しても、彼女は私のことをなかなか思い出せなかった。まあ、そんなことはどうでもよいことだ。彼女とひとしきり、よもやま話をした後、私は挨拶をして一足先に失礼した。
 実は、謝恩会の行われた日の午後三時ころ、地震があったのである。新幹線は不通となっていた。私は、日本生態学会の自然保護専門委員として、会議に出席しなければならないのであった。翌日、幸いにも一時間ほどの遅れで博多に着き、満員の特急で何とか熊本までたどり着くことができた。
 委員会は御前中に済んだので、熊本市街まで出た。驚いたことに市電が走っていた。おまけに繁華街から熊本城が望めた。画廊ふうの喫茶店で食事をしたがとても量が少なく、食べた気がしなかった。その後、熊本城の前まで出て、中には入らず、城壁と堀を眺めながら郊外を目指した。ソメイヨシノが咲き始めでとても暖かかった。
 城壁と堀との間には、草むらが広がっていて、外人が上半身裸で寝そべっているのを眺めながら、仙台に始めて行ったときのことを思い出した。当時は、仙台にも市電が走っていたのである。仙台を離れて、そろそろ三十年近くなろうとしている。私の青春時代を過ごした仙台での十年。よく夢にまで見たものだ。とくに電車の路線が夢に出てくる。今は市電も走っておらず、夢と現実の区別ができなくなってしまった。などという想い出に耽りながら歩いて、駅裏の小高い丘を登り始めた。
 小高い丘には林があった。しかし、残念ながらシイはまったく見つからなかった。大木はすべてクスノキであった。陽が暮れるまで歩いたが、アラカシが点在するだけであった。小高い丘を幾重にも回りながら登り詰めて行くと、途中で、あまり人家もなく、遠く見晴らしの利くところに出た。何となく、文明化が進んでいない頃の風景に出会った気がした。映画のロケにはもってこいだろう、などと考えながらさらに行くと、かつての城跡のような、というよりも廃墟のような感じの一帯にたどり着いた。クヌギがところどころ植えてあった。クヌギは帰家植物であるという私の自説がこれで強化された、などと思った。それはどういうことか、については後ほど詳しく説明しよう。
 学会発表をそつなく済ませ、帰りはひとあし早く博多に向かった。博多から門司港行きに乗り込んだ。夕方に熊本を発ったので、もう暗い。その日のうちに下関に着いて、予約した宿に泊まれるかどうか心配になった。門司港に着くと、門司港からは下関行きは出ていないと言う。門司までもどり、関門トンネルをくぐって、対岸の下関に到着した。もう夜の十時を回っていて外は暗い。それでも私は外へ出た。ビジネスホテルの一画は新しい繁華街となっていた。JRの駅もすっかり新しくなっていて、かつての面影はない。今から三十年以上も前に、私は、国鉄下関駅に降り立ったことがあるのである。駅を出ると、海峡があり、すぐ向こうに門司が見えるのであった。その光景がとても気に入り、私は、夕暮れまで海を眺めながら過ごしたものだった。日が暮れると「積み木」というスナックに入り、ほんのつかの間のひとときを過ごした。当時、海の荒くれ男たちを相手にしているには華奢なママさんであったが、そのスナックがあった地域一帯は真っ暗であった。下関発最終の夜行に間一発で駆け込んで、無事、仙台まで帰ったのだった。私は、大学院の一年目に、桜島火山の見学に鹿児島まで出かけたのだった。
 翌朝、私は考えた。もしや、かつて立ち寄ったのは門司港だったのではないか。私は、また門司で門司港行きに乗り換えた。門司港が近づくと、奇妙な風景に出会った。炭坑の町のような風景に。それは工場地帯だったかも知れない。ひと気があまりないのである。こんなところは通った記憶はまったくない。門司港の改札口を出ると、それはまったく始めての土地であることがすぐさま分かった。門司港からは下関がよく見えた。下関と門司に挟まれた海峡を再びこ.の目で見ることが出来て、とても満足であった。いつまでも眺めていたかったが、今日中には帰らなくてはならない。関門海峡に別れを惜しみながら、門司港の駅に向った。門司港の駅は明治時代の面影を残し、とてもロマンチックな風情があった。


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