新フィールドノート
−その62−



つわものどもの夢のあと
名古屋大学 大学院人間情報学研究科 広木詔三


 あれは、いつのことだったのだろう。日本植生史学会が琵琶湖博物館で開催されたのは。日にちが矢のように過ぎてゆく。京都駅まで新幹線に乗り、琵琶湖線に乗り換えて草津で下車する。それから湖畔にある琵琶湖博物館に向かう。
 シ−ズンのせいか、前日はビジネスホテルがどこもかしこも満杯で、宿泊できず、朝、名古屋を立ったため、聞きたかった粟津湖底遺跡の話が聞けなかった。しかし、明和高校の先生である森勇一さんの話はたいへん興味深かった。遺跡から出土した昆虫の遺体から、当時の植生を推定するというものであった。昆虫は多くの場合、食べる食草に関してスペシャリストなので昆虫が同定できればその種が食べていた植物が特定できるというのである。これはとても面白いユニ−クな研究であった。
 かの有名な佐藤洋一郎さんも招待で講演した。彼は、イネの栽培の歴史をおもに研究しているが、新しい独自の農耕論を展開している。クリの栽培化に言及していることで最近とみに著名である。9 月に日本植物学会で、彼にイネの系統と伝搬についての新しい展開の話をしていただいた。私はその司会をしたのだった。懇親会では酒に関する諸々の話を聞くことができた。
 学会が閉会したのち、まだ時間にゆとりがあったので、琵琶湖博物館を見学した。一つ、とても気に入ったのは、コイ科の系統に関する詳しい情報が得られたことである。まだ、日本列島が中国大陸から離れなかった頃大陸での祖先である古い系統が進化し、日本列島が大陸から離れてから日本独自のコイの仲間が進化したという。その大陸起源の古いコイの多くは日本列島では絶滅してしまつたが、ワタカと呼ばれる一種がまだ生存しているというのである。
 琵琶湖博物館は最初は、たいして見るべきものもなかった。帰りまぎわに気づいたのだが、地下に淡水魚の水族館があるという。残された時間が少なかったのでほとんど駆け足だったがひとめぐりした。夕暮れどきが迫っている湖畔が博物館の窓越に見えた。地下にもぐると大きな水槽のあいだをトンネルのようにくぐりながらさまざまな淡水魚を見ることができる。懐かしいハリヨにも出会った。そしてワタカにお目にかかった。絶滅を免れた古いコイ科の末裔であるワタカはもはや琵琶湖には生息せず、小さな流れの一画で細々と生き延びているという。
 このワタカのように大陸で起源したものが日本列島に到達したコイの仲間とは逆に、日本列島で進化した新しい起源のコイの仲間の一部が大陸に進出したものもあるという。この点については、具体的に情報が得られなかったので、次の機会の楽しみとしよう。琵琶湖博物館はまた訪れたいと感じる博物館であった。
 琵琶湖博物館の帰りに、せっかく京都を通過するのだから、京都駅で地下鉄に乗り、四条烏丸まで行き、地下鉄から地上に出て驚いた。方角がまったくわからないばかりではない。周囲はほとんど真っ暗なのである。あの賑やかで華やかな京都はどこへ行ってしまったのかと思うほどだ。しかし、その暗い中に一軒、店があった。何と超満員であった。かなり狭い店なのでそれも無理はない。それでも荷台にしているテ−ブルを片づけてくれて、何とか割り込ませてもらえた。やや、天狗の舞がおいてあるではないか。それと、メニュウにうわさに聞いた下仁田ネギが載っている。群馬県が発祥地らしいが、京都地方の一画でも栽培しているということだ。さっそく注文してみた。うわさどおりの "ぶっとい" ネギが、何と言うことはない、味噌とともにど−んと出てきた。もう一度で十分だ。店の大将は、私が時間を気にしているのを見るや、焼き魚は時間がかかるからと言って、取り合ってはくれない。京都では、いちげんさんは優遇されない、と聞いていたがやはり本当だった。
 草津から近江八幡を経て安土まで行くと、そこに安土考古博物館がある。日本植生史学会後まもなく私はこの安土考古博物館に出向いた。この安土考古博物館に中川治美さんという学芸員の方がいる。この中川さんが、例の日本植生史学会で、粟津湖底遺跡の堆積物の報告をしたのだった。私は、彼女の講演に間に合わなかったものだから、ちょくせつ話を聞こうというわけだ。
 私は気づかなかったのだが、粟津湖底遺跡というからには、遺跡は琵琶湖の底にあるのだった。私は、説明を聞いたら、直接この目で見てみようと考えていたのである。あらためて考えて見ればもっともな話である。琵琶湖の底にあるから湖底遺跡というのである。資料をもとに説明を聞き、資料もいただけるというので、現場を見ることは断念した。
 タクシ−の運転手が、安土考古博物館の奥の方の建物の中に安土城があるから見て帰るように勧めた。私は、博物館で見るよりは、本物の安土城を見てやろうと思い立った。安土考古博物館を出て、中川さんに分けてもらった重たい資料を両手に抱えて、安土城に向かった。
 こんもりとした小高い丘のふもとから石段が続いていた。途中、豊臣秀吉の屋敷跡があり、そこはただだだっぴろいだけだった。ツブラジイの木があり、シイの実がたくさん落ちているので、つい拾いはじめた。拾い終わると薄暗くなりかけていた。両手に重たい資料を抱えて、石段をさらに上って行った。城郭の曲がりくねった石段の道を、どこまでも上って行った。.なかなか本丸にたどり着くことが出来なかった。ついに、汗だくだくで本丸に到達したが、そこには城はなく、二人の若い女性が測量をしていた。周囲は木が茂り、遠くに見える琵琶湖はかすんで見えた。帰りに石段を下るとき、今度は冷えてとても寒かった。安土城から安土の駅までまたもや重たい資料を両手に抱えて、遠い道のりを歩き続けた。
 安土から京都に向かう頃、日が暮れてきた。大津で降りて、ビジネスホテルに電話をすると嘘のようにガラガラだと言う。例の重たい資料を部屋に運んでさて食事をしようとして表に出ても何にもない。見渡すかぎり食堂がない。喫茶店はどうやら店じまいをしているようだ。しかたがないので、大津の駅までもどった。大きなホテルが駅の向こうに見えるが、飲食店はきわめて少ない。これまであちこち出かけたが、こんなにひっそりとしたところは初めてである。そのうちア−ケ−ドのある商店街を見つけた。ところが食堂なんて何にもない。一軒、豆腐料理の店を見つけた。それからしばらくして、細い路地を見つけた。うすぎたなく胡散臭い店が何件か並んでいたが、店の中は外からは見えない。もうだいぶ時間も過ぎ、背に腹は代えられない。やぶれかぶれでのれんをくぐった。何と、狭い店に超満員であった。これだけ店が少なければ満員にもなろう。幸い、一つだけ席が空いていた。とにかく何でもいい。おでんと酒にありついて、ようやく目的を達した気がした。名古屋と違って何と安くてうまいことか。店を探すのに苦労はしたが、こんな安くてうまい店があるなら、大津も悪くはないと見直した。
 今日は一限目と三限目の授業があった。夕べも夜遅くまで授業の準備をした。昼はパン一切れと牛乳だ。その他諸々の仕事を済ませ、今、こうして、くたびれ果てて、かけはしを書き終えようとしている。間もなく、最終バスの来る時間だ。


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