新フィールドノート
−その55−



青春の思い出「下宿屋」
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 1964年、私が東北大学に入学した年に東京オリンピックが開催された。私は、仙台市のはずれの下宿屋で、カラーテレビでオリンピツクを観戦した。カラーテレビなるものを見たのは、そのときが初めてであった。
 その下宿屋は、仙台市のはずれの「鈎取(かぎとり)」という地名のところにあった。この鈎取から大学までバスでおよそ45分かかった。私は、仙台という見知らぬ街に出てきて、毎日バスでの車酔いに悩まされつづけた。そういう苦労はあったが、当時は、何もかもが珍しかった。谷を深く刻んだ広瀬川という大きな川が、市街地とそのすぐ北側の青葉山という丘陵地帯を隔てていた。教養部のあった川内(かわうち)は、市街地のはずれから、この広瀬川を渡った青葉山のふもとにあった。私の生まれたちっぽけな水戸という当時人口たかだか十万の町と比べて、当時5〜60万も人口のあった大都市が珍しいばかりでなく、このような地理的にも地形的にもこれまでとは異なる生活環境は私にとって強烈な刺激であった。私の生まれ育っただだっぴろい関東平野の丘陵地帯とはまつたく異なる世界であった。
 鈎取のバス停を降りて、田んぼや畑のあいだを15分ほど歩くと、仙台市と名取市の境を流れる名取川に出あう。この川のほとりにその下宿屋はある。
 部屋は10室あって、山形県や秋田県から来ている人が多く、私を除くと北海道の出身者が一人いた。それぞれの専攻は、工学部、文学部、教育学部、経済学部、そして私は理学部と多士済済であった。私は人見知りをするほうなので、しばらくのあいだは部屋にこもっていることが多かった。文学部の文学青年は、あのマンガの「おそまつ君」のいやみさんそっくりで、あだ名もいやみさんと呼ばれていた。おしゃべりで、人のいやがることをする点でも似ていた。彼は、大学から帰ると、必ず人の部屋をガラッと開けて、「よおぅ」と声をかけるのであった。経済学部3年生の部屋には、「禁パチ」と書いた貼り紙があった。彼は「マルクスは偉大だ」と秋田弁で言うのが口癖であった。彼は「マルクスは偉大だ」と秋田弁で言うのが口癖であった。その後、経済学の講義で「商人は泥棒である」と教師が言うのをを聞いて、たいへん驚いた記憶がある。資本論などに目を通して、真実を知ったのはずっとあとのことであった。
 だんだんと慣れてくると、下宿人達といろいろとつき合うようになった。なにしろ野球のひとチームが出来るほどいたのだ。シーズンになるとアユ釣りをしたものだった。女友達を連れてくる下宿人もいて、皆で仲良くトランプなどもした。私は、教育学部の4年生に将棋の駒の動かしかたを教えた。彼は、一手に2〜30分もかけて考えるのであった。いつのまにか私は大学に行かなくなってしまった。これではいけないと夏休みが明けてから、引っ越したのであった。新しい下宿屋は、ちょつとした山の手の坂道を登ったところにある古風な建物であった。今度は、誰もつき合う人間がいなくなってしまった。ひとクラス百人の授業ではなかなか友達も出来ない。来る日も来る日も、私はほとんど誰とも話をしない日が続いた。その頃のことである。カフカの変身を読んだのは。星の王子様を英語版で読んだのも。それから数え切れないほどの引っ越しをしたのだった。


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