新フィールドノート
−その53−
青森での想い出
名古屋大学情報文化学部 広木詔三
昨年末に、青森県の三内丸山遺跡に関する研究会が開かれた。今回は、私も共同研究者の一人として参加した。飛行機で行けばいいものを、電車で行くものだから時間が掛かる。仙台あたりではまだ雪を見ないが、盛岡を過ぎるあたりでは、田畑にうっすらと雪が積もっている。八戸あたりになると雪は本格的になる。車内でも、だんだんと冷えていく感じがする。それもそのはず、どうやら風邪ぎみだ。
飛行機で来る人たちは当日に到着することになっているが、私は電車なので研究会の前日に青森に到着した。熱っぽかったので、午後の三時にはビジネスホテルに行って、一寝入りした。夕食どきになって、食事に出かけた。そのあと、一杯ひっかけて寝れば風邪も直るかと思い、新町あたりに繰り出した。クリスマス・イヴである。しかも懐かしい青森の街である。岡田書店は今でも昔のままである。この本屋で失恋した相手と出会ったのである。
彼女は当時短大二年生で、彼女たちは京都へ修学旅行に出かけることになった。当時は新幹線はなく、彼女達は仙台にも立ち寄った。当時、東北大学の学生だった私はそのことを聞きつけて、仙台駅まで出向いた。彼女たちの乗った特急電車に私も乗ってしまった。彼女たちは専用車両に乗り、私は一般の人が乗ることのできる車両に乗った。私の乗った車両は満員で、私はまる六時間立ちっぱなしであった。でも、辛くはなかった。何が辛かったかと言うと、彼女が「あの人と私は何の関係もないの。」と彼女の友達に言っている言葉が聞こえてきたことだった。
青森は、そのような思い出のある街である。だから少々の熱があっても、雪の中を歩きまわった。そのせいか、夜、熱が出て寝汗をかいた。
翌日は、少々体がだるい。それでもバスに乗り、雪道を、三内丸山遺跡に向かった。研究会は、午後から始まった。最初の報告は、竪穴式住居に用いる材がどれくらい必要かを試算したものであった。住居の建材には、すべてクリの木が用いられているという。どうも材は時間を経ると腐るらしく、 年で建て替えるという仮定を用いて、毎年どれくらいのクリの木が必要かを計算したと言う。ちゃんと聞いたつもりだったが、熱のせいか、実際にどれくらい必要だったかという数字を憶えていない。どうやら、縄文時代の中期の中ごろから急に人口が増大したらしい。これは想像だが、おそらく中期のはじめ頃は天然のクリの木はそう多くなかったのが、クリ以外の木を切り払って、クリの木を選択的に増やしたのではないだろうか。大量のクリの実を食料にすることで、多くの人口をやしなうことが出来たようなのである。
もう一人の発表は、GISを利用して、地図に遺跡をプロットした結果についての発表であった。このGISというのは地理や地形の情報がコンピューターに入っていて、その情報を利用できるシステムである。時代ごとに遺跡の位置を地図上に記し、年代ごとの変化を見ると、海岸線の位置が重要な要素を示しているのが読みとれた。もちろん、内陸部にも遺跡は存在する。当時の状況を想像してみよう。海岸近くで魚貝類を採集していたのが、世代を経るにしたがって海が遠のいてしまったとしたらどうだろう。生業のあり方が大きく変わらざるを得ないであろう。三内丸山における縄文中期の繁栄は、六本柱の巨大な建築物を造ったのち、忽然と衰退してしまったと言う。気候変動による海岸線の大幅な移動が当時の生業の形態を変化させ、社会組織の崩壊を招いたのではないかと推測される。
三内丸山の縄文時代の話は、私にとってはすべて耳新しいことなのでたいへん興味深かった。だが、やがて熱が高くなり、さすがに夕方ごろには疲れが感じられた。研究会が終了し、一旦は宿に帰り、それからまた皆で落ち合い、夕食に出かけた。青森は新鮮な魚貝類が食べられるので楽しみにしていたのだが、風邪はますます悪化して、料理や酒を味わうどころではなく、たいへん残念であった。
翌朝、朝食を取り、チェックアウトをしてビジネスホテルを出た。適当に時間をつぶして昼頃に青森駅発の特急に乗った。発車して十分もすると浅虫に到着した。浅虫は温泉街で、東北大学の臨海実験所がある。大学の四年のとき臨海実習できたことがあるのだった。この日は、浅虫駅では、特急に乗る人もほとんどいなかった。空はどんよりと曇っていて、駅の構内や駅周辺は、昔ながらにうら寂しい感じがした。やがて、列車は発車し、浅虫の海岸線が見えてくる。臨海実験所は小高い山の向こう側に隠れて、列車からは見えない。この小山のわきの坂道を下って行くと、かつてはそこに東北大学の附属の小さな水族館があった。当時は、青森での数少ない名所の一つで、みやげものを売る売店も多くあり、それなりの賑わいを示していた。現在では、青森県に大がかりな水族館が出来ていて、その小さな水族館は廃止されてしまっている。
水族館のわきに臨海実験所の門があり、そこから入ると右手に松林があり、左手は海岸になっている。正面の臨海実験所の手前から右の道を行くと、そこに宿舎がある。
臨海実習は今思い出すと楽しかった。船に乗って実験材料を取りに行くこともあった。「なまこ」や「うに」の採集は辛かった。私はあのとげとげのある「うに」が気持ち悪くどうしてもつかめなかった。「なまこ」は海底の泥の中から手さぐりで探すのであった。もう考えただけで気持ちが悪く、泥に手を突っ込んで何にもいなかったときはほっとした。このなまこには骨が発達せず、骨片と呼ばれる小さな骨が散在している。このような無脊椎動物の骨片を毎日毎日観察したものだから、「コッペン、コッペン、コッペンナー」という歌が一時的に流行ったものだった。このような日々が続いていたが、ときには実習を少し早めに終えて、青森市内まで繰り出したこともある。臨海実験所から青森市内までは、バスで 分以上もかかるのであった。当時臨海実験所の所長をしていた平井先生が書いた海産動物の本があり、この本を東奥日報という新聞社が出版していた。青森駅近くの岡田書店という本屋に入ってこの本を探した。この岡田書店にはその本はなかった。ある女性がその本の出版社である東奥日報まで案内してくれて、その本を手に入れることが出来た。
ある日、岡田書店で出会った女性から電話があった。水族館に遊びに来るというのである。彼女は友達と二人で遊びに来た。その日は海が青く、まぶしかった。だが気がつくと、彼女たちは、私を置いて、私の仲間たちと一緒に帰って行くではないか。私は後を追いかけるのが気恥ずかしくて、宿舎のほうの道から後を追おうとした。しかし、その道は、ぜんぜん違った方角に向かっていて、彼らとはますます離れていくのであった。
臨海実験所の海岸には、干潮のときには歩いて渡れる裸の大きな岩がそびえ立っている。それは裸島と呼ばれていた。臨海実験所を隔てている小山を特急電車が迂回すると、また海岸線に出て、この裸島が見えてくる。だんだんと雪が舞い、視界が霞んでくる。やがて八戸を過ぎ、浅虫から遠のくにつれて、過去の想いでも過ぎ去っていった。
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