新フィールドノート
−その50−
栗の栽培が始まったのはいつ頃からか
名古屋大学情報文化学部 広木詔三
新しいコンピューターが入った。ただし、ハードデイスクだけだ。マックのG4で、箕浦さんが盛んに羨ましがる。頭に浮かんだことをそのまま機械が打ち込んでくれるコンピューターは出来ないのか、と聞くと、さすがに箕浦さんも笑っていた。早いばかりが能ではない。今度の機械は全体にスピードが確かに早い。しかし、画面を早送りすると、一瞬のうちに早送りされて、どうしても途中で止まらない。
さて、早いもので、もうひと月が過ぎた。穂高への学生実習から帰った翌日は、早朝から秋田の植物学会にむけて旅立つ。帰りはバラバラであるが、行きは四人が車に乗り合わせて行く。宿の夕飯に間に合わせるために、早朝の出発となった。東名、首都高速、東北自動車道と、例のごとく小林君の車は快走する。秋田県に差し掛かると、高速道路の速度制限が50キロになり、それでも100キロで突っ走る。残念ながら、日本海は見えない。それは日の暮れたせいなのか、丘陵が邪魔をしているのかわからない。しかし、夕焼けが美しい。オレンジ色の空に浮かぶ雲が、日本海に浮かぶ島々を想わせ、浮世絵が空一面に広がったようなのである。
学会から戻ってからがまた忙しい。穂高では、今年はブナが豊作らしい。学生実習の際に、ブナの実を拾って感じたのである。今年はブナの実の落ちるのが早い。早速、ブナの実を拾いに穂高に出向く。ところがブナは豊作ではなかった。それでも1日かけて、ブナの実を300個集めて、それを全部播いてきた。ある狙いがあるのである。これは今のところは企業秘密である。
ところで、今年はクリの生産量を人間情報学研究科の新美さんたちと共同で調べていることは前号で紹介したとおりである。なんと、調査は、9月の6日から10月20日まで掛かった。ほとんど毎日小原村まで車で通うのであるから学生さんたちは大変だ。南山大学の院生も手伝ってくれた。私も何かしないといけないので、クリのいがと果実の関係を調べてみた。その結果、面白いデータが得られた。野生の栗と栽培栗では、殻斗(イガのこと)当たりの果実の重量比が異なるようなのである。しかしながら、実際のクリの個体群は、栽培栗が逸出して半野生化したり、野生のものと交雑したりして、たいへん複雑なのが実態のようなのである。この実態についてはまだまったく解明されていない。栗がいつ頃から栽培化されたかについては、いろいろな見解があり、縄文後・晩期から栽培化が進んだ可能性も指摘されている。しかし反論もある。いずれにせよ、縄文時代の後・晩期には、すでに現代の栽培栗の大きさの果実が遺跡から出土している事実もあり、興味深い。何をもって栽培とするかも問題であるが、三内丸山では、食料をクリに大きく依存していたという。人間と栗との関わりがあったことは事実である。それはいったいどのようなものであったのだろうか。大いに想像力がかきたてられる。三内丸山の展示室には、遺跡から出土したクリの遺伝子組成が野生のものよりも一様だという証拠写真が飾られている。たしか縄文時代中期頃であったと思う。しかし、この内容はまだ論文としては公表されていないので、今後の検証が必要である。まだ真相は闇の中であるが、縄文時代を身近に感じるこの頃である。
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