新フィールドノート
−その43−



三内丸山遺跡
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 たまたま2月の5、6日と、青森の三内丸山遺跡まで出かけることになった。名古屋大学の人間情報学研究科に新美さんという考古学を専門とする方がいる。新美さんは、おもに遺跡から出土する動物の骨をもとに、人間が何を食べていたか、さらにはどのような生活を送っていたか、というような研究をしている。新美さんは、三内丸山の縄文時代人の生活についても研究を進めているところだ。
 近年、縄文時代人の生活についての認識が深まりつつある。単なる狩猟採集のみの生活ではなく、ある時代からは定住するようになったとも言われている。このような縄文人の生活についての私たちの認識の変革に、三内丸山もひと役買っている。一説には500人とも言われた大きな集落後が発掘されたのだった。実際には、500人よりははるかに少ないと思われるが、どれくらいの人間が生活しえたのかという具体的なデータはまだない。
 花粉分析や遺跡から出土した材から、クリが食料や住居や生活の用材としてたくさん使われていることが明らかにされている。三内丸山遺跡周辺では、花粉分析の結果、縄文時代の前期末から中期にかけて、ブナ林からクリの多い林に変化したことが分かっている。クリはどんぐりとともに、縄文時代人にとっては重要な食料だ。三内丸山では、縄文時代の中期に、かなりクリに依存した生活を送っていたようなのである。栽培とは言えないまでも、他の樹木を排除して、選択的にクリを増大させた可能性があるらしいのである。他の遺跡では、どんぐり類もさらして食べる場合が多いのに、三内丸山では、クリとクルミが多くどんぐりは利用されていなかったらしい。いったいクリでどれだけの人が養えるかを推定しようというのである。 
 私は、森林の変遷と人間の関わりには大いに関心がある。現在、私たちの住んでいる周辺の森林は二次林と言って、何度も何度も伐採されて薪炭林として利用されてきたものである。やはり花粉分析の結果から分かっていることだが、今からおよそ1500年ほど前から急にアカマツが増加しだしている。このアカマツの増加は、その頃の焼き物生産の高まりと関係している。大阪の泉北丘陵で、5世紀ごろの窯跡が発掘されて、焼き物を焼いたあとの炭が見つかっているが、その炭を調べた結果から、燃料として使われていた材が広葉樹からアカマツに次第に変わっていったことが明らかにされている。私は、共通教育で行っている主題科目の授業で、このことを毎年取り上げている。この焼き物生産とアカマツの増加の話をしたあとに、なぜ森林を伐採すると広葉樹林からアカマツ林に変わってしまうのかを、森林の生態学的観点から説明することが私の役目だ。本当は、シイ・カシの常緑広葉樹が伐採されると、落葉広葉樹に変わってしまうのだが、花粉分析と泉北丘陵のデータでは、そのことまでは明らかにされていない。
 今回は1ページにとどめるつもりなので、伐採を続けると、なぜ森林は変化してしまうのかということまで書くゆとりがない。徹夜したあと、久しぶりに寝台列車に乗ったという話も詳しく出来ないのが残念である。
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