新フィールドノート
−その42−



コブラ・イベント
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 昨年の11月28・29日と三宅島に出かけた。その間、かけはしの原稿のことをいろいろ考えていた。ところが、その後、12月に入って、仙台で学会があった。仙台は、私が学生時代に過ごしたところで、懐かしさのあまり、こちらを1月号の原稿として優先させてしまった。最近は、種切れも手伝って、フィールド・ノートらしくない。読者の反応もすこぶる悪い。一昨年のことだったが、かけはしの読者会というのがあって、一度、参加したことがある。一読者から、フィールド・ノートの私の専門の内容はたいへん期待しているが、面白おかしく笑わせる内容はいかがか、というようなことを指摘された。種切れならば、もう、かけはしに原稿を書くのはやめるべきであろう。しかし、たまには、これまでに行ったことのない所や、新しい研究の発展もある。このクソ忙しい中、この原稿を書くことにもメリットはあるのである。書けば書くほど、書き慣れてくる。この効果は、次のような形で表れた。
 昨年、私は、日本生命財団に応募して、研究助成を受けることになった。2年間で、ほぼ2千万円の額だ。私は、これまで科研費なるものに縁がなかった。教養部時代には科研費の申請をしたことがなかった。情報文化学部に所属してからは、せめて申請だけはしなくては恥ずかしいと思い、仕方なく書類を書いていた。私のように、最先端の研究をしていないことと、業績がなかなかあがらない者には、科研費は、まず当たらない。しかし、この日本生命財団の援助が得られたことの一つの要因としては、書くことが、以前ほどいやでなくなったということがあると思う。ただ、年間1千万円といっても、10人の共同研究だから、頭割りにすると、一人百万程度で、今の重点化の進んでいる時代には、たいした金額ではない。しかし、里山に関するテーマで認められたことは、現在の万博問題も関係しており、やりがいはある。そのかわり、忙しさは、もう言葉には表すことができない。この原稿も、箕浦さんから、締め切りの催促がきてから何日たつのだろう。
 私は、昨年末から正月にかけて、休日を返上して論文を書くことに専念した。一月末が締め切りなのである。学生さんのいない、静かな環境で久しぶりに研究に打ち込んだ。かつて、ホソバノハマアカザという海岸の塩沼地に生育する一年生草本の種子が落ちるのを毎日数えたことがあった。冬の間に、風が吹くと、種子が落ちるのである。大晦日や元旦も、落ちた種子の数を数えに毎日大学に通った。かつては、まとめて休みの取れるときには、ドストイェフスキーを読む習わしであった。本を読まなくなって、どのくらい立つのだろう。
 比較的最近、とは言ってもかれこれ半年はたつたかもしれないが、めずらしく本を読んだ。それがコブラ・イベントである。面白くて、500ページを越す書物を2晩と3日で読み通したのである。しかも、原書で。わからない単語を気にせず、日本語のように読めるようになったのは、中学校で英語を習いはじめてから、何と、35年近くもかかっている。そう言えば、2、3年前に、ソフィーの世界やネアンデルタールも原書で読んだのだった。現在は、その頃よりも多忙化が一段と進んでいる。本を読もうという気力も衰えつつある。
 ところで、リチャード・プレストン作の「コブラ・イベント」は生物兵器を扱ったサスペンスものである。国連軍がイラクの生物兵器を査察する場面も出てくる。話の発端は、アメリカのとある街で、一人の少女が奇妙な病気で死ぬところから始まる。高校の美術教師が、彼女の発病の場に居合わせて、少女が自分の口で舌などを噛んだりするのを目撃する。後に、この教師も、感染して死んでしまうのだが。この自分を傷つけるという病気はリッシュ・ナイハン症候群として存在することが知られている。やがて間もなく、一人の浮浪者が似たような症状で死ぬ。この一見、関係のなさそうな迷宮入りしそうな事件を、うら若きアリス・オースティンが解決するという筋書きである。彼女が例の死んだ少女を解剖する場面はリアル過ぎる。著者は、ジャーナリストらしいが医学を学んだことがあるに違いない。話は核心に迫って、遺伝学者がウイルスを捕まえ、遺伝子配列を読みとる。それは、Autographa californica という蛾に宿るウイルスであることがわかった。このあたりから犯人が作品の中に顔を出しはじめる。彼は、蛾に宿っているウイルスに天然痘に類似したウイルス遺伝子を加工し、それをまき散らして人類を滅ぼそうというのだった。小手だめしに、一度試してみたときの犠牲者が浮浪者だったというわけだ。終わりの部分では、犯人と主人公の追いつ追われつの緊迫した場面が続くのであるが、そこは小説、主人公は助かるのであるが、もう、このころには英語であることなどまったく気にならなくなる。国会議員やCIAあるいはFBIなどの出てくる政治的な場面もある。遺伝子工学が盛んになった現在の問題点をついている。しかし、そこは小説。何と言っても面白くなければ話にならない。そういう点では久しぶりに、読みごたえがあった。本を読み終わった時点でこのかけはしを書いていれば、もっとリアルに紹介できたのではないかと、少々残念である。
 だいぶ昔、オルダス・ハックスレーの小説を読み始めたことがあった。彼の小説は、やはり科学の知識を題材にしたサイエンス・フィクションで、一種の文明批評でもある。しかし、途中で挫折してしまった。ある成金が、長寿の妙薬を求めるというあらすじで、数百歳という世界で一番長命な人間を見いだしたら猿になっていた、という話である。生物学の進化の理論の一つにネオテニーという現象があって、サンショウウオなんかで有名である。新しい種が、元の種の子供の状態のまま成熟するという現象である。であるから、このことを人間に当てはめると、人間は、チンパンジーの子供の状態を保ったまま成熟するということになる。ハックスレーの小説は、この考え方を形象化したものである。なぜなら、人間が、チンパンジーの子供の状態なら、そのまま年を取れば取るほどチンパンジーにならざるを得ないという理屈だ。最近、題は確か Many year a summer だったと思うが、この本に最挑戦してみた。今回は、最後の結末まで何とかたどりつくことが出来た。以前は、退屈な文章に感じられたが、今回は、微妙な人間の風刺も理解でき、味わい深く読むことができた。
 しかし、このような読書が可能であった時代は終わった。毎日、何かに追われているような脅迫観念に捕らわれている日々が続くかぎりは、本も読めない。私は、かつて、このような経験をしたことがある。ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」を読み始めたときのことだ。面白くてやめられず、フィールドに出かけるときに、抱えて行った。バスや電車の中で、しまいには歩きながら読みつづけたのだった。そして、ついには、仕事をせずに、喫茶店に入って読みふけってしまった。
 そういう時は、もう二度と来ないように思われる。
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