新フィールドノート
−その41−



仙  台
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 このところの様々な雑用の波が引いたところで、私は、久しぶりに、ほんとうに久しぶりに英文の論文作成にとりかかった。ところがどうだ、てんで頭が働かないではないか。つい先日、今年の春に海上の森で調査したギフチョウに関する日本語のペーパーを書き上げたばかりだ。英語の論文も、いくつか書いて、もう書き慣れているはずだ。それなのに、何にも手がつかない。土曜日は週休二日制で、学生もやってこないので、ずいぶんと落ちついた気分のはずなのに、この有り様だ。
 私が三階からこの四階の一番はずれに引っ越して、ちょうど一年が経過した。それまでの足の踏み場もない状況から脱出して、わりとこぎれい(小綺麗)な部屋に落ちついた。そして、私の息子が使い古したオーデイオを持ち込んだりした。それでNHKラジオ英会話をカセットで聞いたりした。その頃、ちょっとクラシックも聴いたこともある。ただ、私の大好きなチャイコフスキーの第五番は、気持ちにゆとりがないと、聴く気になれない。それ以来、クラシックとはご無沙汰だった。
 最近、家で、娘のバッハのCDを見つけて、無断で借り出した。娘は、今、ネパールという遠い国に行ってしまって、ひと月以上帰ってこない。そのすきに、家から持ってきたのだった。私の大好きなヴランデンヴルグ協奏曲の入っているやつだ。これは家で何度聞いただろう。ひと頃は、毎日聴いた。聴けば聴くほど、心に響いてくる。子供の頃、私はヴァイオリンの音を聞くと、ガラスのキーッという音と区別がつかなかったのが嘘のようだ。今は、ヴァイオリンの音色がたまらなく感じる。
 さて、私は、英語の論文作成に取りかかる前に、バッハのヴランデンヴルグ協奏曲を聞いた。この曲を聴いていると、雑念が消えていくように感じられる。ひと頃の、食事の間も雑念が頭から離れない状態から解放されたような気がして、その後、論文作成にしばらく専念することができた。
 ところで、私は、12月の5・6日と、仙台での植生史学会に出席してきた。この学会は、まだ比較的新しい学会で、わが国の森林などの植生が過去から現在にかけてどのように移り変わってきたかといことを解明しようとしている。花粉分析の方法や植物の化石を用いて、植生の変遷を明らかにしようというのである。この学会の前日(4日)には、東京で日本生命財団主催の「これから中山間地農林業を考える」というシンポジウムが開かれ、それにも出席した。日本生命財団とはこれから2年間おつき合いをしなければならないのだ。なぜなら、私は、生まれて初めて、日本生命財団から研究助成なるものを受け取ることになったのだ。さて、私は4日の夜には新幹線で仙台に向かった。
 仙台は寒かった。名古屋のポカポカ陽気が嘘のようだ。仙台駅を出て、五橋(いつつばし)方面へ向かった。仙台を離れて、もう何年になるのだろう。もちろん電車は走っていない。私が、仙台に住んで間もなく、電車は廃止になったのだった。私は、なんども何度も仙台の夢を見た。電車の走っている頃の夢をよく見た。今は、電車は走っていない。かなり暗くなり、私は、まったく見知らぬ街を歩いているような錯覚に捕らわれた。五橋に出ると、そこから道は斜めに真っすぐに走っていた。そこから一番町(いちばんちょう)はすぐそこだ。この一番町というのは、仙台の目抜き通りである。私は、東北大学に入学したばかりの頃、有名な仙台の七夕祭りを見に行ったことがある。一番町は車は通ることが出来ず、木町(きまち)通りから片平町(かたひらちょう)にかけて、アーケードつきの商店街が延々とかなりの道はばで続いている。七夕の最盛期には、その大きな通りを人が埋め尽くし、トコロテンのように人の波が動いていく。前も後ろも、人でぎっしりなものだから、後ろから押されて、ただ足を交互に動かしていれば、とくにエネルギーを使わなくとも、前に進めるほどだった。それ以来、七夕を見に行く気がせず、実際に行かなかった。
 私は、仙台に10年半住んでいた。仙台を離れてもはや24年以上が立っている。だが、私が仙台の街を歩いてよそよそしく見慣れぬ感じを受けるのは、単に長い年月が過ぎただけのようではなさそうだ。私は、仙台に住んだいたあいだ、ちょうど10回の引っ越しをした。いちばん最初は、当時は川内(かわうち)に有った教養部までバスで45分かかる鈎取(かぎとり)というところに下宿していた。そのバス停から下宿まで、田んぼの中を歩いて15分ほどかかった。下宿のすぐ前は、仙台市に接する名取(なとり)市との境界にあたっていて、下宿のすぐ前を名取川が流れていた。シーズンには、鮎釣りもできた。下宿生はちょうど十人いて、野球のチームができるほどだった。こんな思い出ばかり書いていると、きりがない。私の学生時代の懐かしい思い出は、また別の機会にゆずるとしよう。ただひと言つけ加えておこう。夏休みをすぎてから、他の下宿人たちと打ち解けて、仲良くなり、昼も夜も下宿にこもるようになってしまい、これではいけないと、大学の近くの下宿に移り住んだのだった。
 ビジネスホテルに着くと、私は荷物を置いて街にでた。花京院(かきょういん)まで歩いて、そこから原町(はらのまち)までバスに乗った。この路線も電車が走っていたところである。電車の終点の原町は、当時の学生寮まで歩いて20分ほどのところである。この学生寮に入ったのは何度目の引っ越しだったのだろう。八木山(やぎやま)という山の手から、仙台市を延々と横切って、リヤカーで引っ越しをしたのを思い出す。持ち物なんて、たいしてなかった。この学生寮は、大学院時代に入ったのだが、夜遅く帰ると、夕食の米は冷えて固くなっており、味噌汁はナベの底の方にわずかばかりで、いつも具なんかまったく残っていなかった。今思い出したのだが、なんども何度も同じような夢を見たが、それは、この寮だった。私は、よく引っ越しの夢を見る。それも学生時代の。狭い屋根裏部屋の下宿を見つけて落ちつくと、どこか心が安らぐ、というわけの分からない夢をよく見る。私は、夢は創造である、という独自の見解をもっている。もちろん、その夢を見る背景には、フロイドの指摘するように、何らかの動機が横たわっているだろう。だが、その夢は、現実とどこか似ているが、現実とはどこかかけ離れている。私は、仙台を離れてから、仙台の夢を見すぎて、現実よりも夢の方がより現実的に思えてしまうほどである。
 大学院時代の研究のフィールドは会津磐梯山である。当時は、ばかでかいリュックを背負って出かけたものだった。あるとき、磐梯山からの帰りで、夜遅く寮に帰る前に、原町で食事を取ったことがある。その飲食店では、酒も飲めるが、当時は、私は酒を飲むという習慣はなかった。磐梯山のフィールドでは、山形大学が自炊のできる宿泊施設を立てたので、もっぱらそこを利用した。そこでは、いろんな人と一緒になった。山形大学や福島大学から湖沼の研究に来る人が多かった。たいてい学生も一緒である。そういうときは、女子学生がいて料理が出る。私一人のときは、食事には時間をかけないようにしている。したがって、侘びしい。だから、ごちそうが出るときは二重に嬉しい。なかには酔っぱらって学生に介抱される教授もいた。彼は、「おれは下等だ。」「おれは下等だ。」と大きい声ではしゃぐのだ。何のことはない、あとで聞くと、かの教授の名前は加藤というのだった。また、別のときではあるが、福島大学の教育学部の学生さんが、5、6人が皆一緒になって、歌の本を一冊唱い続けていたこともある。たいていの場合、夕食どきには、わたしもビールをごちそうになる。その当時は、まだ酒はうまいと感じたことはなかった。ところが、ある真夏の陽のかんかん照りの日に、スコップで泥流の厚さを調べる調査をしていた。当時は、1988年の磐梯山の大爆発の際に流れて堆積した泥流の厚さを調べるために、スコップで掘って歩いたのだった。スコップをかついで、あちこち堀り歩いているときのことだ。裏磐梯高原といえど、真夏は暑い。汗だくだくになる。ふと、ビールが脳裏をかすめた。その後、私は、夏のくそ暑い時期にはビールが懐かしくなるようになってしまった。
 私は、大学院生の1年目に失恋をした。つき合いを断られてから、ほぼ一年、みぞおちのあたりが何となく変な状態がつづいた。一度、こういう夢を見たことがある。彼女がやってきて、そして去って行くのである。その場面は、今でも鮮明に憶えている。
 私は、いつしか、原町という仙台のはずれのひなびた飲食店で酒を飲むようになっていた。ビールはまずく、3本飲むと二日酔いで辛かった。その店は橋のすぐわきにあって、店の裏側をどぶ川が流れていた。この飲食店は、だんだんと食事よりも客の相手をするようになっていった。私よりも年上の女給がいた。その後、こんなことではいけないと、心を入れ替えて、また、引っ越しをした。それでもときどき、この店にやってきたことがある。私は、いまでは失恋の痛手も消え、うまい酒が飲める。しかし、そうなったのは、40代も後半になってからである。今になってわかるのだが、私の心の傷は、失恋ではなく、私の幼少の頃に母親が結核で倒れ、ずっと死ぬまで病床にあったことだった。
 原町の例の店は、すっかりさま変わりしていた。スナックになっていた。帰ろうか迷った。外は、とても寒かった。意を決して、中に入ってみた。カラオケを唱っている客と年輩のママが一人いた。以前の店のことを尋ねてみたが、知らない様子だった。まだ、この店をはじめて2週間だという。電車の走っていた頃の話をすると、「私が生まれる前だっちゃ」と仙台弁で応えた。酒を注文したら、煮付けやら、酢の物やら、そして味噌汁まで出てきた。そうだ、これが仙台だ。私が学生時代に大学病院の近くに住んでいた同郷の友人の下宿を尋ねたことがある。その大学病院のすぐわきに小さな喫茶店があった。入って紅茶を注文して飲んでいると、店の人がいろいろ話かけてきた。紅茶をのみ終わってしばらく粘っていると、コブ茶が出てきた。戦後まもなく、パーマ屋を経営しただの、若い頃の話をいろいろと聞いた。帰りそびれていると、お茶菓子とお茶が出てきた。とても感じのよいおばあさんだった。たった一杯の紅茶の値段で、こんなにもいい思いをしたので、また来ようと思った。だが、二度とその店に行く機会は訪れないでしまった。ところで、原町の今入ったばかりの店は、カラオケを唱う名古屋のスナックと同じで、昔のような感じはない。もう、いまでは、昔のように、お互いに心を通わせる人の出会いの場は、仙台と言えど存在しないのだろう。名古屋で、一度スナックに入ってコーヒーを注文したら、追い出された経験がある。仙台では、かつては、スナックで食事をし、コーヒーを飲むことができたのである。そこであやしげな学生たちと出会ったし、宮城教育大学の先生と知り合い、そのスナックでよく将棋を指したものであった。その先生は、将棋の魅力にとりつかれ、私に負けるのを非常に悔しがったものである。あるとき、「君は、この将棋に打ち込むくらい研究をすればいいのに」と言われてしまった。彼は、その後、埼玉大学に移り、わたしも名古屋に移った。一度、東京の自宅まで遊びに行ったことがある。そこは、やはり好き者どうし、将棋を指すことになった。当時、私はまだ初段くらいの腕であったが、その先生は道場に通って自称三段でとうしているという。負けるかと思いきや、一勝、一敗の後、私が三勝目を制して勝ってしまった。遊びもつき合ってもらったけれど、学生時代に、いろいろな学問的な話をしたのは、唯一この先生だけであった。
 燗をした酒を二合飲んで、少々いい気分で、スナックを出た。帰りは、大きい通りを避け、狭く斜めに走る小路をずっと歩いて帰った。何度も夢に見た道だ。なんでこんなところを夢に見るのか不思議に思えた。ごく最近も、夢に見たような覚えがある。ところで、現実はひどかった。空き地が多いのである。土地の値上がりか、地上げ屋かわからないが、歯が抜けたように、空き地だらけなのであった。現実に打ちひしがれ、酔いも覚め、1時間以上も歩き続けてビジネスホテルに帰り着いた。
 翌日、植生史学会は午後からだったので、十分時間があった。私の学部時代に通った片平町に近かったので、行ってみた。まだ、レンガづくりの建物が残っていた。この建物についても、よく夢を見たものだった。やはり、今となっては夢と現実とどちらが現実だかすごく曖昧になってしまった。私が大学院に入った年に、東北大学は青葉山という山の上に移転してしまったので、わずか2年間しか通わなかった。その、かつての東北大学の敷地の外側を歩いていくと、広瀬川のがけっぷちに出る。そこから川が侵食して広く刻んだ段丘を見おろせるのである。この崖に沿って、家屋が並んでいる。昔は、そこに一軒、子供のための駄菓子屋があった。冬の吹雪の日に、教室を出て、その駄菓子屋の窓から、広瀬川に舞う雪を眺めるのが私の楽しみの一つだった。どんよりとした空、広瀬川をおおう広大な空間に粉雪が舞う。それはドストイェフスキーの小説に出てくるネヴァ川を思い起こさせる。ネヴァ川は雑踏の溢れる街なかを流れる点で、広瀬川とは違う。広瀬川は、蛇行し、谷壁を刻み荒々しい。しかし、あのどんよりとした空と雲。この景色を見ると、私は、胸が熱くなることがしばしばあった。多分、それはドストイェフスキーの読みすぎだったのだろう。だが、今、広瀬川とあのどんよりとした空を見ていると、何か失ったものを取り戻したような気分に浸ることが出来る。
 かつての東北大学のキャンパスを離れ、西公園に差しかかる。ここから、電車が急カーヴして曲がっていくのだった。仙台に来て、いちばん最初に印象に残ったところだ。西公園からも、広瀬川が見渡せる。私は、ときどき、昼休みどき、この西公園に来ては、近くの会社員が興じているバレーボールに加わったりして楽しんだものだった。そうだ、思い出した。かけはしに思い出を書いていると、それが刺激となって、思い出が憶い出を呼び起こす。そうだ、ここには市立図書館があったのだった。私は、大学の授業はそこそこにして、この図書館でカントの哲学書などを読んだりしたのだった。その当時は、ほとんど何も理解できなかったのだったけれど。
 それから大橋という橋を渡ると、青葉城の入り口に差し掛かる。ふもとに、魯迅の碑が建っている。江沢民主席がこの碑を訪れたという。私も学生時代、魯迅の「阿Q正伝」を読んだことがある。そこから坂道を登ると、青葉城へ入る道がある。そこを曲がらずに奥へ行くと東北大学の付属植物園である。右手の方には、東北大学の記念館がある。この講堂で、交際を断られた彼女と、5年ぶりにチャイコフスキーの第五番を聴いたのだった。それは私の後輩が東北大学管弦楽団の団員でその曲を演奏するからでもあった。本番を聴く前に、研究科の院生仲間で、その後輩の下宿に押し掛け、チャイコフスキーの第五番をレコードで聴いた。そのときは、何だかよくわからなかった。私は、しばしばオーケストラの観賞券を買い、いろいろなクラシックを聴いたが、たいていの場合、おしまい近くのティンバルやら大太鼓のやかましい騒音ではっと目覚めたものだった。ところが、後輩の下宿での予習が功を奏したものか、記念講堂で彼女と一緒に聴いたチャイコフスキーの第五番は、音楽会が終わって、会場を出たあとも、とくに感じの良かったメロディーが、なんども何度も繰り返し私の中から聴こえてきた。そんなことは初めてだった。私は、自分の中に音楽を聴きながら、仙台の街を彼女と歩いた。そのときも、仙台はとても寒かった。
 この原稿をバッハのクリスマス・オラトリオを聴きながら書き始めたのだが、この原稿を書き終えようとしている今は、音楽はとうに止んでいた。
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