新フィールドノート
−その4−



明治溶岩横断記(1)
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 5月6日から10日までの、三宅島での調査から帰って、最新のフィールド・ノートをお届けしょうと思っていたところ、「かけはし」五月号は、すでに、印刷中であるとのことでした。新フィールド・ノートには、私もかなり意気込んで取りかかり、1、2、3月号までは、真面目に原稿を送っていましたが、なかなか「かけはし」が発行されないので、5月号は、あわてずに様子を見ていようと思っていたのです。ところが、5月号に限っては、原稿の依頼もないままに、もう、すでに印刷の体制に入ってしまっていたのです。1回休んで、申し訳ありません。
 さて、今回、なぜ三宅島での調査かと言いますと、愛知大学の市野先生との協同研究で、大幸財団から研究費を受けることになったからです。
 伊豆諸島の一つである三宅島は、火山島で、過去に何度も爆発を繰り返しています。明治時代の1874年に流れた溶岩が島の北側に堆積しています。この溶岩上は、もうすでに、森林で覆われています。オオバヤシャブシとタブノキという樹木が大部分です。裸の溶岩上には、まず、オオバヤシャブシが侵入します。樹木の場合は、とにかく、まず、オオバヤシャブシです。そして、このオオバヤシャブシが成長して樹冠を形成すると、鳥がいろいろな樹木の種子や果実を運んで来ます。三宅島の溶岩上では、次に真っ先に運ばれて来るのがタブノキなのです。
 いちばん最後に、スダジイが侵入して来るのですが、明治溶岩は、そのようなスダジイの侵入を研究する上で、もってこいのフィールドなのです。
 明治溶岩は、幅がおよそ500メートルほどですが、それをどのように調査するかは大問題です。1ヘクタール(100メートル四方)だけで、樹木の数は何100本とあるのですから。
 私は、まず、明治溶岩を横断することにしました。実は、この試みは、以前におこなって、失敗しているのです。まったく始めての森林の中をまっすぐ歩いてゆくことは至難のわざです。とくに溶岩のように、起伏が激しい場合は100メートル進むのも容易ではありません。1991年に一度試みたのですが、その時は、100メートルも侵入したでしょうか、どこをどう歩いているのか見当がつかず、恐れをなして、いちもくさんに、下の方に向かって、くだってゆきました。とにかく、下の方にくだれば海に出るのですから。
 今回は、荷造り用のひもを用いて、明治溶岩上を横断することにしました。200メートルの荷造り紐を2つと100メートルの予備の紐を3つ用意して入ることにしました。標高2,300メートルの地点の一方の登山道から入り始めました。森林でおおわれているとは言っても、むき出しの溶岩と溶岩の間にはすき間があり、思うようには歩けません。さらに悪いことには、一つの大きな尾根を越えるたびに、方向が分からなくなってゆきます。ちょうど真ん中へんと思われる200メートルの紐を使い果たした時点では、いったい自分は、どっちの方角に進んでいるのかまったく見当がつかなくなってしまいました。このような時の不安は名状しがたいものがあります。そうして、もう一つの200メートルの紐も使い果たして、ついには持っていた3つの予備の紐も使い果してしまいました。恐れていた事態になりました。と言って、700メートルの来た道のりをとって返すのも情けないことでした。その時見えたのです。林の向こうに、白い道が。ついに踏破したのです。このように大きな困難を乗り越えた時ほど、また、喜びの大きいことはありません。
 それがいったい、研究の成果とどんな関わりがあるかですって? それが大ありなのです。
 そのことは、また次回に。


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