新フィールドノート
−その39−
広 島
今回の学会はさんざんだった。大会前日に、「かけはし」編集委員長の箕浦さんにばつたり出くわしたために、締め切りの過ぎた「かけはし」の原稿を書くはめになり、そのため学会発表の準備がその分遅くなった、ということについては前号で述べた。だが、言い訳はすまい。発表の準備を、もっと早くしておけばよいのだから。だがしかし、多忙化はきわまりなく異常なほどである。その上、自分の発表の準備よりも、まず、大学院生の発表の準備の進行具合をチェックしなければならない。
今年の日本植物学会は、9月21〜23日に、東広島の広島大学で開かれた。広島駅からうじな行きの市電に乗り、大手町の中電前でおり、すぐ目の前の予約してあるビジネスホテルに入った。そこは、毎年、原水爆禁止世界大会の開かれる平和記念公園と原爆ドームにわりと近い。もうだいぶ昔のことだが、名古屋大学職員組合の一員として原水禁世界大会に参加したことがあり、そこを訪れたことがある。
翌朝、携帯していったスーツを着用して、さっそうとビジネスホテルを出る。目の前の市電の停留所に市電が止まっている。ちょっとあわてて走ろうとした。そのとたんに転んでしまった。スーツのひざのところが無惨にも破れてしまった。歩道をよく見ると、角張った敷石の凹凸が明瞭に見て取れ、これでは転ぶのも無理はない。ビジネスホテルに戻って通常の服に着替えて、あらためて出発した。
広島大学は広島から遠かった。広島駅からJRで東広島まで出、そこからバスに乗り換える。広島大学は数年前に全学の移転が完了したということだった。何が誤算かというと、交通費がかさみ、持参した予算では足が出そうなことだつた。私は、現在五つの学会に入っているが、そのうち出席するのはおもに二つである。年間に出る旅費はたかだか6万円である。この20年以上の間に旅費は5万円から1万円ほどアップしたが、宿代や運賃の値上げにはとうてい追いつかない。入りたい学会はもっとあるし、できれば多くの学会に出席したい。だが、家計がそれをゆるさない。なにしろ科研費にあたったことの無い者は、フィールド・ワークを自費で行わなければならないのだから辛い。このようなぐちは以前にも書いたことがあるので、これ以上は自粛しよう。
今回の植物学会では、自分個人の発表の他に、ある集会を企画したのである。ブナ科とカバノキ科の生態、系統、進化という内容である。以前のかけはしでいろいろと紹介したように、ブナ科の多くは大きな果実をつける。それに対して、カバノキ科の多くはきわめて小さい種子を生産する。この種子や果実の大きさの違いは両グループの生存戦略の違いとして大きな役割を果たしている。どんぐりのように大きな果実を着けるものは、他の種との競争に優れていたり、比較的厳しい環境においても生存率が高まる。それに対して、カバノキ科の多くは、火山地帯や、山岳地帯の崩壊地や河川の氾濫原などのように、大きな変動にさらされる地域にその生存の場がある。このような対照的な二つのグループは、ブナ目としてまとめられており、比較的近縁であることが知られている。このような対照的なブナ科とカバノキ科がどのようにして起源し、進化してきたかは、きわめて興味のあるところである。最近は、化石の産出も多く、ひところとは比べられないほどの情報量がある。しかし、惜しむらくは、専門が分化し過ぎて、生態学の分野と古生物学の分野が交流することは希である。また、近年は、分子生物学の発展によって、生物の系統を従来よりもより突っ込んで論じることが可能になりつつある。そこで、今回は、カバノキ科の染色体による系統も演題の一つとして予定していた。ところが、この担当者が大学の所用で、やむなく講演を辞退してきたのだつた。私は、通常の講演とこの集会用の発表の他に、この染色体に関わる話も代理で行う羽目になってしまった。今回の学会発表の準備がいかに尋常でないかがこれでお分かりいただけたと思う。もう一つの災難は、このせっかく準備した集会の参加者がたったの十人であったことだ。いや、このこと自体が災難というわけではない。この集会の内容の案内を大会実行委員会がプログラムに載せなかったことが問題だ。プログラムに載らなかったものだから、この企画は当日参加してみないと分からないわけだ。中には、二日目に参加した人は、この企画が終わってからその存在を知っ人もいる。
大会の最終日、私はもう大会には出る意志がなかった。とくに聴講するに値する発表がないというのがその理由だ。だからといって、そのまま帰るのは惜しい。私は美術館に行くことにした。ひろしま美術館には、以前に一度行ったことがある。広島駅のすぐ前を流れる川に沿って、美術館に行くことにした。あの夏の暑さもようやく盛りを過ぎて、眼前に広がる広島市内の町中を流れるゆったりとした川を眺めながら、このような落ちついた気分を味わうのはほんとうに久しぶりだという感慨を味わった。途中、縮景園という庭園の前を通りかかった。ちょっと中を覗いてみた。だがやはり美術館を先に見なくては。美術館はこの縮景園に接していた。美術館は広島県立美術館であった。とてつもなく大きなゆったりとした美術館であった。私が以前に見たのはこんなに巨大な建物ではなく、もっとこじんまりしていた。何かおかしいと受け付けでパンフレットを見ると、ひろしま美術館というもう一つの美術館があることに気づいた。私のお気に入りの印象派の画家たちが見れるのはひろしま美術館だった。ひろしま美術館では、ちょうど昼どきで、人影もまばらで、実にゆつたりと見ることができた。しかしながら、あれほどお気に入りだつたセザンヌにどういうわけか今回は心が動かされなかった。年のせいで感受性が鈍ったのだろうか。それとも過労で神経が麻痺しているのだろうか。しかし、以前はまったくその良さが理解できなかったルドンの「青い花瓶の花」を見て、その不思議な色調の世界に浸った。逆に、昔、ゴッホの「ドービニーの庭」を見たときには、あれほどの驚愕に打たれたのに、今回は、まったくといっていいほど心が反応しない。私もそろそろ老境の境地に入りつつあるのだろうか。
ひろしま美術館を出ると、その庭にマロニエが植えられていた。ほんもののマロニエである。というのも、フランス直輸入のマロニエだから。案内板を読むと、ピカソの息子のクロード・ピカソが昭和 年に、この美術館の開館の記念に贈呈したものだと書かれていた。フランスのマロニエの近縁種である日本のトチノキは渓谷に分布するが、名古屋市内の街路樹にもなっており、まあまあ元気に育っている。だが、このフランス由来のマロニエは、元気がなく、虫に食われていて、なんとなくあわれである。しかし、それでも先ほど見たピカソの絵を思い出しながら、人間社会の歴史的な出来事の一つに出会い、単なる絵の観賞ではなく、まさに人間社会の営みの一部としての絵画の世界に立ち会ったという気がした。
帰りに、縮景園に立ち寄り、入園した。それほど広い敷地ではないのに、池のまわりにさまざまな景色を配してあり、見る角度によってまた違った風景になる。先ほどは、小高い丘だつたのが、今は、その丘の上から斜面や、池の全景やらを眺め、また異なる趣きが感じとれる。縮景園は薬草園あり、茶畑あり、池の中央に石橋あり、とこの上なく変化に富んでいる。私は、ゆつくりゆつくり歩いて2時間ほどかけて歩きまわつた。金沢の兼六園や岡山の後楽園のような広大さはないにもかかわらず、入り江のような池の縁や、茶室や、小さな岩場に松をはやしたミニ松島などなど、縮景園は飽きることがなかった。こんなにゆったりとしたのは、ほんとにいつ以来だろう。
さて、一転して、ここは名古屋。もう、次のかけはしの原稿の催促がきた。またもや、いつものせわしない生活に逆戻りだ。
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