新フィールドノート
−その37−



同窓会と個人的な回想
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 私は、つい最近、甥の子供の頃の写真を発見した。20代の私が2人の甥を抱えている写真である。上の甥は五歳くらいで、その頃の甥は目の中に入れても痛くないという表現がぴったりなほど可愛い。その頃のとてもかわいい甥を見ると、私は、今でも涙が出そうになるほどだ。下の甥は、両親に可愛がられているためか、私にはあまりなつかなかった。上の甥はどういうわけか両親にあまり可愛がられずに、やや不運な人生を送った。その不運な甥は、現在、どう見ても写真の中のかわいい甥と同じ人間とは思えない。そのような人間の変貌ぶりを見るにつけ、私は、人間の成長が昆虫の変態と同じように見えてしかたがない。そういえば、私の息子も20歳を過ぎた今、幼い頃とは別人のようで、これが我が息子かと不思議に思うことがしばしばである。
 私は、最近、中学校3年の同窓会に出席した。
 同窓会当日、会場に入ると、周囲のすべてが見知らぬ顔ばかりに見えた。最初から一目で分かったのは菊池君である。彼はまったく変わっていなかった。彼は、当時「おじいさん」と呼ばれていた。一目で見分けがついたのは彼だけであった。時間が立って、だんだんと昔の顔を思い出してくると、周囲には見かけた顔が多くなってきた。ところで、たいへん驚いたことに、私は、かつての担任の顔を覚えていなかった。というよりも、たいへん老けてしまって見分けがつかなかった。同じクラスの者に、目の前にいる人物が私たちの恩師だと教えられたとき、私はたいへん戸惑ってしまった。私の恩師が帰るとき、会場の玄関まで見送った。その頃になって、ようやく、かつての担任の顔を思い出した。しかし、昔の担任の顔が玄関で見送っている恩師とはどうしてもつながらなかった。
 私の研究は、森林の成り立ちがテーマである。どんな大木といえど、そのスタートは小さな実生から始まる。小さなかわいらしい双葉から、どの樹木の子供かを判別しなければならない。子葉や出たばかりの小さな本葉は、なかなか判別が困難ではあるが、それなりにそれぞれの種の特徴を備えている。しかしながら、小さな実生と老木とのあいだをつなぐものは、長いあいだに蓄積した経験であり、そのような時の経過に思いを馳せるとき、たかが樹木といえど、生き物の不思議なありように驚かされる。
 話は変わるが、人の一生を見渡すことはほとんど不可能である。人は一人ひとりが個性があり、遺伝的にも違いがあることはよく知られているとおりである。ところで、私は、次のような経験をした。私の母の姉は私が物心ついたときには、もうおばあさんであった。私の母の姪は、当時まだ女盛りであったが、つい最近、親戚の結婚式で顔を合わせた。すると、彼女は年をとり、私の知っている彼女の母親にそっくりのおばあさんになっていた。私は、その光景を見て、遺伝子の果たす役割の大きさにあらためて驚いたものだつた。そういえば、私の頭の禿ぐあいも、私の父親のと同じパターンをとりつつある。私は、私の息子が年を取ってから、頭の禿げかたが母方の祖父に似るのか私に似るのか興味深く思う。しかし、それは不可能なことだ。
 話を同窓会に戻そう。会が始まって間もなく、「広木」と近づいてきた男がいた。誰だか思いだせなくて名札を見ると、「赤津」とあった。さすがに、その声の調子は、かつて三年間つき合った友人のものだ。とっさには誰だか分からなかったものだから、冗談半分に「誰だったっけ」と言うと、危うく足蹴にされるところだった。しかし、音信が途切れてから四半世紀が立ち、現在の彼の顔にはどうも最後までなじめないものがあった。
 我々の世代は、戦後のベビー・ブームのさきがけで、一学年11クラスで500人以上もいたた。70人ほどの出席者のうち半数ほどが女性であった。私と同じ組の同級生で出席していたのは平井君だけであった。平井君とは小学校のとき一緒だったのを覚えているが、中学校の3年のとき一緒だったとは思いもよらず、たいへん驚いた。彼は、中学校まで背も高くなく、目立たなかった。私の大学生時代、帰省したときなどにときどき彼を見かけたことがあった。その頃の彼は背が高くなり、声もドスがきいて、肩で風を切って歩いているような風だった。その彼も、今では料理店を開いているという。とても出来た人間に変貌している彼を見て、私は、たいへん感慨深く感じた。彼の店の名刺を貰ったので、今度、帰省したら彼の店に寄ってみよう。
 全員で写真撮影をし、そのあとでクラスごとに写真を撮るという。我々のクラスは男だけで可哀想というので、前のクラスの女性達が一緒に写真に写ってくれた。それをきっかけに話をしていると、そのうちの一人が、経営している店の名刺をくれた。それからしばらくして、校歌斉唱の段になった。私の大の苦手のやつだ。みな肩を組んだりして、輪になって唱った。私は、肩も組まず、校歌も唄わなかった。なぜなら、私は、校歌をまったく覚えていなかったからである。それもそのはず、私は、校歌を唱ったことがないのだった。みんなが校歌を歌いながら中学生の気分に浸っているとき、ほんの一瞬、私は、あのいやな小学校や中学校での音楽の時間を思いだした。
 会もお開きになった。私は、つい数年前、35年ぶりの小学校の同窓会で会ったばかりの根本さんにくっついて2次会に行った。彼女の新しい性は聞いても忘れてしまった。彼女は、どうやら同じクラスのメンバ−と、スナックに行くらしい。タクシーに乗り合わせて、そこに行ってみると、さっき名刺を貰った関根さんが経営する店だった。同級生の経営する店ということで、なじみの者が多いらしく、クラス会のメンバ−の多くがすでに集まっていた。代わるがわるマイクをもって、みな歌っていた。根本さんも歌い始めた。白髪の同級生とデュェットなどして、たいへん楽しそうだ。白髪の彼は、確か樋口と言ったな。彼は、1年のとき私と同じクラスだったと言う。私は、彼に見覚えがなかった。彼は、実によく中学校のときのことを覚えていた。彼は、当時、私から見ると少々うさんくさい連中とつき合っていたようだ。当時、タバコなんか吸うのは当たり前で、吸わないやつはいなかったよ、と言った。私の顔を見ると、ここに吸わないのがいた、と訂正した。そういう話を聞いているうちに、私は思いだした。何かこましゃくれた人間がいたのを。白髪で、酒を飲んで赤ら顔になってはいるが、彼の過去の顔とどことなく似ている。それがどうだ。彼は、今では、白髪の好紳士で、薬屋を経営していると言う。髪も白く、歌もうまく、とても人生が楽しそうではないか。私は、彼と根本さんがデュエットで歌うのを見ながらさらに過去を思い出していた。
 私は、生まれてこのかた歌を歌ったことがほとんどない。歌が歌えなかったのだ。音楽の時間に、オルガンの音を聞いても、どれがドの音かさっぱり判別がつかないのだった。だから、たいてい音楽の成績は「普通」であった。少なくとも、音符は読むことができたので、「ややおとる」や「おとる」の成績を取らずに済んだ。長調と短調の違いは、曲を聞いても分からなかったが、楽譜で見分けることができた。当時は、曲を聞き終わると、今聞いたばかりの曲がすっかり消えてしまうのだった。思えば、このような私が、40代になって、バッハに魅了されたのは不思議なことだ。今では、音楽を聞いて、少なくとも曲のイメージは得られるようになった。しかし、どうしても歌は歌うことができない。  ところで、皆が代わるがわるマイクをにぎって、歌を歌い続けている間、私は、疎外されていた中学時代をさらに思い出した。私は、体育の時間はずっと見学で通したのだった。私は、小学校以来、9年間も、体育の時間は見学であった。運動会も見学であった。母が結核で倒れ、小学校の1年のときに、私は肺浸潤にかかり、小学校の1年生を2度繰り返したのだった。私は、今でも、今までの友達が、みないなくなってしまったあのときの不思議な感覚をよく覚えている。
 私は、音楽や体育ばかりでなく、社会科も苦手だった。国語も苦手だった。私は、高校を卒業するまで、ハガキ1枚書くのに苦労した。今、自分を振り返って見て、何と中味のない人間だったのかと思う。私の心に変化が生じたのは、高校時代に、病院での療養中、アンドレ・ジイドの「狭き門」を読んで涙を流したことや、大学に進学して、ホフマンの「砂男」を読んで心に火がついてからであろう。それからドストエフスキーにのめり込み、ついにカフカに出会ってしまつた。今では、私の心は、カフカの「変身」のように大きく変わってしまったように見える。だが、今でも、歌を歌うことはできない。
 ところで、先ほどの樋口氏とは違って、私は充実した中学生の3年間を過ごしたとはとうてい言えない。思い出が少なすぎる。いや、実は、それなりに思い出はあったのである。初恋の思い出が。中学校3年間、一言も口をきけなかった人が居たのである。同窓会で配られた名簿を見ると、彼女の性は変わっていなかった。しかし、それは遠い昔のこと。もう、ほとんど何も思い出すことはない。

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