新フィールドノート
−その31−



またもやふたたび三宅島
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 今年こそ、「かけはし」の原稿を催促される前にどしどし書くぞ、と意気込んでいたのだが、引っ越しのあおりで、超多忙となり、今、現在、夜の9時過ぎだというのに、箕浦さんが原稿の出来上がりを「いまかいまか」と待っている。
 人間情報学研究科の棟が完成し、多くの人と実験設備がそちらへ移動した。私は、情報文化学部の建物の3階から4階へと移ることになった。4階の一番どんづまりの部屋なので、本などを非常階段を利用して運んだ。私は、人前で言うのもはばかれるが、極度の高所恐怖症だ。今では、あまり利用されていないが、あの歩道橋を歩くのも、宙に浮いた感じで、気持ちが悪い。だが、私の住んでいた建物の3階までの非常階段は、もうだいぶ慣れていた。ところが、非常階段の3階から4階に上がるときに、足が震え、背筋がぞっとする。この非常階段は、よくあるやつで、横に張ってある鉄板と鉄板の隙き間から下や遠くの方がよく見えてしまう。慣れるために、この非常階段で、まいにちまいにち、少しずつ本や物を運び上げた。ところが、これが慣れないのだった。一番下からこの非常階段を登っていくと、3階までは何ともない。3階から4階に進むと、もう、いけない。鉄板の隙き間から見える視界が何となく違って見えるような気がするから不思議だ。おそらく気のせいではなく、私の目が異なる高さから見える景色を微妙に見分けているのだろう。100回ほど登り降りしたが、慣れなかった。ところがしかし、あるとき、突然慣れている自分に気づいた。今では、3階から見た景色と4階から見た景色がそれほど違っているようにはみえない。
 私は、最近、ある哲学者と知り合いになり、「哲学にご用心−認識の謎を探る−」という本をいただいた。その本で知ったことだが、私たちが様々な現象を知覚する場合、現在受けている刺激だけで物事を認識しているわけではなく、現在の刺激が過去の記憶を呼び覚まし、過去の情報と現在の情報をともに利用しているのだ、というのだ。
 話は変わって、昨年の12月13・14日と、三宅島へオオバヤシャブシの種子の採集に出かけた。おととしのほぼ同じ時期にも、オオバヤシャブシとハチジョウイタドリの種子を採集に行ったが、皆さんは覚えておいでだろうか。その種子を用いて発芽実験を行って、我ながらたいへん良い結果が得られたのだった。三宅島には火山の爆発で生じたさまざまな火山噴出物がある。そのおもなものは溶岩とスコリアである。溶岩はマグマが火口から液体のように流れ出して、冷え固まった物だ。スコリアは大気中に吹き上げられて、粉々になり、数センチの多孔質状態のものが堆積したものだ。鉄分が多く、黒っぽい。溶岩上にはオオバヤシャブシが進出できるのだが、どういうわけかこのスコリア上にはオオバヤシャブシが進出できないのだ。スコリア上にはハチジョウイタドリは多い。このスコリア上にオオバヤシャブシがなぜ生育できないかの謎を解くために、実験を行った。情報文化学部の圃場で、3つのポットにスコリアを敷き詰め、オオバヤシャブシとハチジョウイタドリの種子を3月の末にそれぞれ100個ずつ播いた。毎日給水した。5月の初めに、どちらも約7割の種子が発芽してきた。そこで、給水を止めた。雨の降らない日が3日続いただけで、オオバヤシャブシのほとんどが枯れてしまったが、ハチジョウイタドリの多くは生き残った。根の長さにも違いが認められたので、両者の長さも測定した。これで三宅島のスコリア上にオオバヤシャブシが進出できない理由は明らかとなった、というわけである。直ちに英文で論文を仕上げ、投稿した。
 今回は、それではなぜ、逆に、溶岩上にオオバヤシャブシは生育できるのかを突き止めるために同様に種子を採集して実験をしようというわけだ。学生さんたちの面倒も見なければならないので、どうしても十分な時間が取れない。飛行機は昼に立つので間に合わない。夜に立つ船で行くことにした。12月の13日に午後の7時代の新幹線に乗った。山の手線に乗り換えた頃には、10時も近くなっていた。新橋を過ぎる頃、おととしのことが思い起こされた。もっと早く出発していれば、新橋で1杯やれたのに、などと思った。浜松町に着き、駅前の屋台でおでんを詰め込んで1杯引っかけた。12月ともなれば、さすがに寒い、酒の1杯ぐらいでは、震えが止まらない。そこで2杯目を引っかけた。10時をだいぶ回って、ふと気づいた。船の出発時間は、もしかすると10時50分ではなく、10時半だったかも知れない、と。あわてて駆け足で日の出桟橋に駆けつけ、切符を買って桟橋を出ると、橋桁を今にも引き払おうとしているではないか。新幹線代を払ってまで、私はなにをしに来たのかという思いであった。橋桁を無事渡り終えたときは、言葉に表すことのできない喜びを感じた。
 その日は土曜日だったので釣り客で満杯であった。一番舟底の3等室は、もう入り込む余地がなかった。あちこち捜しまわり、ようやく横になれる場所を見つけた。落ちつくと、おととしのことが思いおこされた。そうだ植野さんという人が横にいたのだった。しばらくすると消灯のときがきた。今、このようにして、三宅島行きのストレッチア丸に乗っていると、おととしの現在の状況がまざまざと目に浮かぶ。現在の船の中という状況が刺激となって、過去の記憶をまざまざと呼び覚ますのだった。
 翌日は、5時前に着いた。12月なので、寒くて、暗かった。今回は宿の予約もしてなかったので、しかたなく歩くことにした。延々と歩き、目的地のひょうたん山に着くころに夜が白みはじめた。明るくなって種子の採集を始めると、それは1、2時間で済んだ。帰りの船便が出るまでには、まだ、だいぶ時間がある。今では、バスも走っているので、明治溶岩まで行って、一仕事することにした。4万円以上もかけて、私費で来たのだから、このままではとうてい帰れない。このあと一仕事をして、失敗もあれば、成功したのもあった。このことは、まだ、企業秘密なので、今のところは明かせない。時期がきたらお話しよう。

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