新フィールドノート
−その18−



三  宅  島
名古屋大学情報文化学部 広木詔三


 9月の20日に、三宅島に私費で調査に出かけた。大型台風が迫っていたが、すでに航空券の予約を取ってしまっていたので、予定どうり出発した。幸い、新幹線で東京に着く頃には晴れ間も見え、飛行機は羽田から定刻に飛び立った。東京湾の海面が真下に見える。飛行機に乗るのがあれほど怖かったのに、もう飛行機が落ちたらなんてあまり考えない。海面は静止しているかのようで、台風の影響など微塵もない。波の動きも静かで、時間が止まっているかのようだ。プロペラの音がやけにうるさい。この飛行機、ほんとに飛んでいるのだろうか、と疑う。一瞬、この高度から落ちたら、と、意識がはたらく。静かな海面がくっきりと見える。そしてまた、プロペラの音が耳に響く。やがて三宅島が視界に入る。そして定刻どうり、いつもの見慣れた小さな三宅島空港に到着する。
 翌日は、終日曇りだった。おかげで赤場焼(あかばきょう)溶岩上で、一日調査ができた。今回の調査の目的は、スダジイとタブノキの稚樹がどれだけ枯れたかを調べることである。去年の夏、雨がほとんど降らず、多くの個体が枯死したからである。溶岩上には、オオバヤシャブシが真っ先に侵入し、タブノキやスダジイはあとから侵入することについては、前に紹介したとうりである。タブノキやスダジイは、裸の溶岩のような厳しい環境では生存できない。オオバヤシャブシが樹冠を形成し、マイルドな環境が用意されて初めて生存できるようになる。先に侵入した植物が環境を変化させることによって、後から侵入する植物の生存を可能にすると考えられる。植生遷移におけるこのような理論は、すでに今世紀初頭にクレメンツによって出されている。遷移の初期においては、いろいろな例が知られているが、タブノキやスダジイが侵入するようなステージではまだ確かめられていない。昨年のように、三宅島で夏に雨がほとんど降らなかったのは、数10年に一度の出来事かも知れない。このチャンスを逃すてはない、というわけである。
 その晩、客は私一人であった。その日は、午前も午後も、飛行機が飛ばなかったからである。定期船も、この3日間、運行してないという。予定が1日ずれていたら、三宅島に来るのも危ういところであった。風呂をあがったあと、食事をする部屋で、相撲を観戦した。ビールも注文した。この「美晴館」は、数年来のなじみだ。宿のおかみさんが、「今日、貴乃花が優勝するそうですよ」という。あれ、武蔵丸がまだ2敗のはずだが、と思っていると、武蔵丸はあっけなく負けてしまった。大きなテレビを前に、ビールを飲みながら大相撲なぞを観戦するのはこの上もないことである。いつもは、せいぜい夜のダイジェストをときどき見るだけだから。この日は、千秋楽をまたずに、貴乃花が勝って優勝してしまった。いい気分になって、食事の用意ができた頃には、すきっ腹に酔がまわってしまっていた。
 さらに次の日は、終日雨と風だった。夜半から風が強まり、いよいよ台風17号が接近してきた。テレビでは、伊豆諸島を直撃するという。調査はあきらめた。持ってきたデータ整理に切りかえた。終日、卓上計算器でデータ処理をおこなった。仕事がはかどった。いつもは、授業や会議、さらには諸々の雑用で、なかなか思うようにいかないのである。かけはしの原稿書きもある。ところが台風のおかげで、朝から晩まで、他にすることが無いので、かなりのデータ処理が出来た。そしてまた、夜はビールと大相撲である。三宅島に、なにしに来たのだろうか、という気がした。
 さて、その次の日は、帰る予定の日である。しかし、まだ大事な仕事が残っている。明治溶岩上で、タブノキとスダジイの稚樹の枯死を調べるのである。明治溶岩上では、すでに森林が発達している。去年の夏の雨が少なかった影響は小さいに違いない。案の定、タブノキもスダジイも枯死した個体はきわめて少ない。スダジイの個体はもともと少ないので探すのがたいへんだ。統計処理にかかるだけの数を調べる必要があるのである。去年張った紐は、一部にまだ残っていたが、大部分は消滅していた。意を決して、中深部へ向かって進んだ。スダジイの稚樹がなかなか見つからず、少なからず焦りが出る。後ろを振り返ると、進んできた方角が分からなくなった。しかたなく、一度、もとに戻って、また注意深く中央部へと向かった。見覚えのある場所にでた。しかし、それから先は、ぜんぜん見当がつかない。心細くなってきた。帰りの便に間に合わなければならないので、中心部に向かうのを断念した。だが、スダジイの個体数は、まだ十分とは言えない。フウトウカズラという蔓が溶岩上を覆っている。フウトウカズラに惑わされて、うっかり溶岩のすき間に落ち込む。溶岩で手や足に擦り傷ができる。ときには打ち身で、しばし身動きできない。年は争えず、昔のような身軽さは望めない。時間も無慈悲に経過する。フウトウカズラのつるに足をからまれて、すべった瞬間、目がはっきり見えなくなった。そうだメガネが無い。そう気づいた瞬間、大きな恐怖におそわれた。メガネなしでは仕事は絶望的である。帰ることだっておぼつかない。必死で探した。フウトウカズラで覆われた溶岩上は、無常にもぼんやりするばかりであった。これは恐ろしい経験である。メガネが見つかったときの気持ちは、これで生きて帰れる、というものであった。疲れがどっと出た。そのうち気づくと、今度はカメラが無い。これもぐるぐる歩き回って、なんとか見つけた。スダジイを統計処理にかかる最小限見つけて、なんとかバスに間に合った。2時間に1本しか走っていないのである。乗り遅れたらどうなることか。
 以前、初めて三宅島を訪れたときのことである。1987年10月14日であった。シイの実を採集して三宅島を回り、帰りの船を待っていたときのことだ。台風19号が迫っていると言う。波が荒いと、船が出ないと言う。2時間前から、私は、港で待った。初めのうちは、海も穏やかであった。これなら間違いなく船は出ると、常連が言う。ところが次第に波が大きくなる。遠くの沖合いでは、白い大きな波が次々と立ち始めた。そのうち岸壁に波がドゥット押し寄せるようになった。さきほどの常連が「こりゃだめだ、もう1泊すっか」とか言って宿に帰って行った。私は、そのときは、もう1泊する金を持ち合わせていなかった。祈るように2時間、海と波を見つめていた。そのときの情景を今でもときどき思い出すことがある。


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