新フィールドノート
−その128−
新名古屋校舎への引っ越し
広木詔三
六月になって気温が上がり、風邪がようやく治まった。
一月からずっと熱を出して何度も寝込み、もう駄目かと思った。その合間に、試験の採点をし、家に帰るともう寝たきりになることがしばしばであった。
三月に入ると、引っ越しのため本をダンボールに詰める作業に追われる。わが国際コミュニケーション学部は経済学部とともに豊橋の校舎から笹島の新校舎に移るのである。ダンボール詰めは二週間ほどかかった。他の人たちはひと月も前から取りかかっていた。私は大事な論文を仕上げているところだったので、それどころではなかった。論文を投稿して早速作業に取りかかった。それから二週間、土・日も休まず箱詰めをした。
皆は本や資料その他を仕分けるのに時間が掛かっているようだったが、私は名古屋大学を去るとき必要な文献以外は思い切り処分して置いたので割と楽であった。まず、授業のノートと資料を一つにまとめてすぐ授業に取りかかれるようにした。
作業終了予定日が廊下に張り出されており、みな予定日までに終了していたが、私は予定日を三日オーバーしてしまった。総務課の担当者と出会ったとき、部屋の鍵がまだ返っていませんね、と言われてしまった。実は本などのダンボール詰めは終わったものの、捨てるものの処分がまだ済んでいない。部屋をきれいにして明け渡さなければならない。私の部屋の前だけ本や雑紙や試験の答案やらが山のように積んであってたいへん目立った。でも、その頃は他の先生たちはもう大学に来なかった。
三月二十二日からダンボールの箱を開ける作業のため名古屋校舎に出向く。新校舎まで名古屋駅から歩いて十五分と聞いていたが、私の足では三十分以上かかってしまう。
二回目からはあおなみ線を利用した。それがまた時間が掛かるのである。地下鉄桜通線を使うと、地下深くもぐってまた出るときもなかなかたいへんである。そしてJR名古屋駅の表の入り口から反対側の新幹線改札口の前を通ってさらにぐるっと回ってあおなみ線の改札口にたどりつく。
通勤時間帯以外は十五分間隔なので一つ乗り過ごすと、十分ちかくまたなければならない。結局三十分以上掛かるのではあるが、足が弱っているのでしかたがない。降りるのは一つ目のささしまライブという駅で、乗っている時間は二分にも満たない。最悪だったのは、ささしまライブ駅を出てから愛知大学までの道がまだ出来ていなかったことであった。かなり遠回りしなければならなかったので直接駅から歩いたのとそれほど変わりがなかったのである。
愛知大学の新校舎の周辺は草ぼうぼうの荒れ地か砂利を敷いた裸地で、まるで砂漠である。鉄条網のような金網で囲われた空き地を尻目にぐるっと回ると、ジャイカの建物に出会う。それをまたぐるっと回らなければならないのであるが、そのジャイカの駐車場は広く、その駐車場にそった道にはジンチョウゲが咲いている。ジンチョウゲを見ながら、そしてその芳香を嗅ぎながら歩くのが日課であったが、それもまた悪くはなかった。
最初に愛知大学の新校舎に着いて驚いたことは、至るところ作業中であったことだ。
校舎は事務のある厚生棟と研究室のある講義棟の二つの建物からなるが、まだ私の他には先生たちの人影がなく、深夜の韓国の地下鉄のようであった。いや、タルコフスキーの『惑星ソラリス』の宇宙船の中のようでもあった。
整理の作業を止め、研究室を出て建物の外に出ると外はもう暗くなっている。新月にちかい三日月が西の空に見え、北の方には名古屋駅周辺の高層ビルが聳え、窓には無数の明かりがきらめいている。その夜景がまさか美しく見えるとは昼間のあいだには思いもしなかった。
ああ、またふたたび新しい生活が始まるのだなと感じた。
(この原稿は5・6月号に投稿予定のものでしたが、送信するときに添付しわすれたものです。)
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