新フィールドノート
−その127−



会津磐梯山
 広木詔三


 盛岡に近づくと、車窓のむこうに黄金色の稲穂がひろがる。まだ九月の十三日なのに水田が色づいている。早稲が植わっているのだろう。
 このところ足が痛くて、毎日の出勤もなかなかしんどい。下北半島の釜臥山や八甲田山の毛無岱へ行くのを今年は諦めてしまった。もう野外調査は無理かも知れない。
 九月六日に名古屋を立って、その晩に山形に着いた。少々風邪ぎみだがかかりつけの病院で薬をもらい決死の覚悟で出かけたのだった。山形大学の辻村氏が家庭の事情で今年いっぱいで退職するという。それで裏磐梯の情報を得るために彼の研究室まで押しかけたのだ。六日の山形は雨で寒かった。新幹線がものすごく冷えて、風邪が悪化したようだ。ホテルは山形駅の裏側で新幹線の出口の真ん前だ。繁華街までくりだす気力がなく、構内の食堂で食事をする。気づくと、刺身がまずい。なんで山形くんだりまで来て刺身を食うのか、と我ながら思う。
 その翌日、辻村氏はまるいち日研究室に缶詰だそうだ。それはかえって都合が良い。苅住氏の樹木の根の本、裏磐梯の空中写真、彼の裏磐梯に関する10編のコピー。必要な情報はほとんど手に入った。ただ、彼は昼も研究室を離れられないので、残念ながら山形の旨いソバを食べることは出来なかった。
 三日目は早々に山形を立ち、名古屋へ向かった。途中福島で思い立って一時下車した。福島市内を川が流れていることを思い出したのだ。タクシーを拾って紅葉山公園まで行ってもらった。公園でミズナラのどんぐりを拾った。樹にくくりつけられたプレートにはコナラとあった。明らかな間違いだ。いや、それは雑種の可能性もあった。葉柄が中間的なので。しかし殻斗は明らかにミズナラのそれだ。
 公園の裏手は川に接している。阿武隈川だ。川の向こうにまばらな町並みがあり、その向こうに丘陵が迫っている。昔ながらの発展しない町並み。
 帰りのタクシーで運転手が言った。福島は落ち込んでいるね。仙台は除染の作業員がどっと来て景気がいいけど。
 昼食時に福島駅の構内でソバを食べた。食堂の壁に古い朝日新聞の記事が貼られていた。ラジウムそばが名物だという。そのとき気づいた、放射能にみな無知なことに。
 暑い名古屋に八日にもどり、十三日にはまた名古屋を立った。裏磐梯に調査に行く決心をしたのだ。
 新幹線を東京で乗り継ぎ、郡山で磐越西線の特急に乗り換える。十五分ほど間があった。この間、思い出に耽る。
 大学院時代、二年後輩の平慎三君と佐渡ケ島へ行ったことがある。仙台から延々バイクを飛ばし、暗い山中を越えて新潟に出る。平君は新潟市出身である。一晩彼の実家に泊まった。翌日、港からフェリーで島に渡ったことも思い出した。
 佐渡ケ島に渡った晩の宿でのことである。若い女の子が二人ワインを抱えて入って来た。おそらく大学生だっただろう。平君は修士の一年で僕は後期過程の一年目だった。宿の造りと、賑やかな華やいだ雰囲気を鮮明に覚えている。当時は失恋の心の傷がやっと癒えた頃だった。
 平慎三君は生意気な学生で、オダムの生態学の基礎を原書で読み合わせていると、先輩、そこはこういう風に訳すべきですよ、とか言うのである。私は英語は得意であったが、生物学は苦手だったのだ。
 石巻から船で渡る金華山という島がある。そこにはシカが生息していて、動物生態学講座の連中が島の神社に泊まり込んでよく調査をしていた。
 シカの食害と植物の関係の調査を指導教官の吉岡先生に依頼され、平君と僕は金華山に乗り込んだ。鹿の多いシバ地で、僕がいろいろ見て歩き、考えていると、平君はシカの食害を免れたアカガシの若木を見つけて、それをノートに書き込んでいる。植生図も描いているではないか。平君の原稿に吉岡先生が手を入れて報告書が出た。三人の連名になっていて、私の名が筆頭になっていた。
 このことを思い出すといつも心苦しくなる。佐渡ケ島での宿での華やいだ気分も帳消しだ。
 電車が発車した。その次に思い出したのは、最初に付き合った女性だ。高校の同級の妹だ。はがきや手紙をたくさん書いた。何を書くことがあったのだろう。僕はナルシストだった。細かい字で自分のことだけを延々と書いたにちがいない。その後、青森で臨海実験所での実習に行ったときに荒啓子という青森明の星短大生と出会い、同級の妹とはずるずると引きずって別れた。思い出すととても心苦しい。
 電車は次の喜久田駅に着く。
 バイクの免許を取得して間もなく磐梯山の調査に出かけたときのことである。福島市内の交差点のど真ん中でバイクがエンストを起こした。そのうちエンジンがかかり無事発車した。この原稿の初めの方で、福島駅で降りたことに触れたが、福島市内にはそういう思い出もあったのである。
 一度仙台から水戸の実家にバイクで帰ったことがある。途中いわき市の平という町の喫茶店に入った。そこではポール・モーリア楽団の曲が流れていた。シバの女王というものだ。そのとき突然音楽が僕の心に入り込んだ。僕はそれまでドミソも聞き分けられない音痴同然だったのだ。僕はそれから音楽というものに夢中になったのだった。
 失恋の痛手も働いていただろう。
 電車は磐梯熱海に到着する。川の向こうに温泉街がひろがる。乗客の乗り降りも目立つ。
 青森から彼女が仙台に同級生と二人で遊びに来た。喫茶店を出るとき、もう会いません、と言われた。僕はその晩、仙台の町をうろつき回ったのだった。
 それは僕が大学院に入学する直前だった。それから僕は酒の味を覚えた。いや、ほんとうの酒の味を知ったのは大分あとのことだ。やけ酒だったのだ。胃の少しわきに穴があいたような感じはほぼ一年つづいた。
 それから五年後、後輩のつてで彼女と再会した。
 五月の連休に彼女が一人で仙台にやって来た。仙台市内を歩き、喫茶店に入り、そこを出てまた歩き、また喫茶店に入る。
 翌日、別の女性とほぼ同じコースをたどって歩いた。女子校を卒業したばかりの。佐々木育子という名の。
 当時、僕は、古川市という仙台からかなり離れた街の高等学校に非常勤で通っていた。彼女から手紙を貰った。もう一人佐々木という名の女の子も手紙を寄越した。あとで分かったことだが、とても人気のある先生がいて、彼女はその先生に近づくのが目的だったようだ。当時、大学紛争が高校に波及して、学校が揺れていた。
 二日目に同じコースを歩いた若い方の女性に、かつて別れた人と寄りが戻ったことを告げた。
 彼女は泣いて帰った。
 さらに悪いことには、古川までさよならを言いにまた会いに行った。喫茶店に二人で居るところに父親が来て彼女を連れて帰ってしまった。
 このことも思い出すととても辛くなることの一つだ。
 その後、再会した青森の彼女と結婚して現在に至っているが、彼女に離婚すればよかったと何度言われたことか。心臓の手術さえしていなかったら、と。
 僕と別れたあとにいろんな人と付き合った話を妻から聞くたびに、僕は焼きもちを焼いて逆上するのだった。
 トンネルを出るとやがて晴れた空に会津磐梯山が見えてくる。手前には黄金色の稲穂が広がる。


  前回     メニューへ    次回  
  
新フィールドノート
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp