新フィールドノート
−その123−
夢の鞍馬山
広木詔三
六月四、五日と京都で植物地理・分類学会が開催された。
木曜日の晩あたりから熱っぽく、ひと晩寝汗をかいて調子がもどり、金曜日には出勤した。その晩またもや熱が出て、翌日の四日の土曜日朝には、ついに起きることが出来なかった。
昼が過ぎてもだるくて起き上がれず、今回の学会には参加出来ないと諦めた。午後の四時をまわって、なんとか起きだし、まだ熱っぽかったが家を出た。
新幹線の窓から外の景色を眺めていると、松枯れらしきものが見えた。そのうち赤茶けた枯れ木が目立つようになり、曇り空でのその景色は、黒沢明の映画「夢」の一場面を連想させた。それはナラ枯れの光景であった。
学会のエクスカーション用に準備した地形図では、そのナラ枯れの起きている場所は範囲に入っておらず、特定出来なかった。
地形図専門店のアルプス社が店じまいをした。アルプス社は、地下鉄東山線の新栄にあり、これまで長いこと地形図を買いに通ったものだ。アルプス社が店じまいをしたため、地形図はジュンク堂書店に買いに出かけた。
ジュンク堂書店は、地下鉄矢場町から歩いて五分ほどの所に近年オープンした大型書店である。
ロフトという建物の地下一階と七階がジュンク堂書店のフロアとなっており、七階は専門書売り場でかなりの専門書が揃っている。丸善に人影が少ないように感じられるのもジュンク堂書店の影響が大きいのではないかなどと余計なことを考えてしまう。
地形図はジュンク堂書店の地下一階の一般書のフロアの奥に地域ごとにケースに収まっている。
鞍馬山は京都の左京区にあり、二万五千分の一の地形図では、「京都東北部」の上の(ということは北側の)「大原」という区画に入っている。
ジュンク堂書店の地下一階で、地形図を探していて気づいたのだが、そして気づいて驚いたのだが、私はこれまで京都を逆さまに思い描いていたのだった。つまり、京都の北を南に、また、南を北に見ていたのだった。これまで京都には何度も行ったことがあるのに、まったく気づかなかった。まさにこのとき京都のイメージに対するコペルニクス的転回を経験したのだった。
新幹線が京都駅に到着したとき、私は頭の中の京都のイメージをひっくり返す必要はなかった。JRの改札口を出て、大勢の人ごみの中の通路を通り、新幹線口とは反対のいつもの京都駅に出ると、それはいつもの京都であった。京都が上を向いていようが下を向いていようが実際上はまったく問題にならなかった。
京都駅に着いたのは午後の六時近くで、そろそろ懇親会の始まる時刻である。会場は京都大学の一画にある楽友会館である。バスではとても間に合わないのでタクシーに乗った。
楽友会館は古風な感じの建物で、会場は狭い。でも、植物地理・分類学会はマイナーな学会であるから広さは十分である。
酒は飲み放題というのに料理は少なく、もうほとんど残っていなかった。
投稿した論文が三カ月も戻ってこないのでどうしたのか探りを入れるのが目的の一つであった。だが、学会誌の編集委員はもう帰ったらしい。残念だが一つ目の重要な目的は達せなかった。もう一つの目的は鞍馬山に関する情報を得ることである。熱っぽいので、エクスカーションに参加するのはむりである。せめて情報だけでも得たい。担当者に体調が悪いことと、明日のエクスカーション参加を担当者に断り、鞍馬山の資料を求めたが、資料は懇親会会場にはないという。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
鞍馬山周辺は、カシからブナの移行帯にあたる。モミやツガの針葉樹も混じると、大会の案内状には書いてある。日本海側ではカシとブナが接するのに対して、太平洋側ではモミやツガ、ときにはイヌブナを交える。このゾーンを中間温帯林と称するが、これが森林帯として独立させるかどうかは大きな論争の的である。
植物地理・分類学会だけあって、植物に詳しい人が多い。私の関わってきたフモトミズナラやクロミノニシゴリという東海丘陵要素の樹木についての情報も得られたし、また、私からも情報は発信した。だが、現在投稿している論文の内容がフモトミズナラに新種としての名前を与えようというものであることは企業秘密なので漏らさなかった。
投稿原稿が返って来ないのは私の原稿を見たレフェリーの一人が自分の論文が日の目を見るまで、稿の返却を送らせているのではないかと疑っている。
私は分類学プロパーではないので、原稿を書き上げてから、投稿するまでに一年近くも逡巡していた。リジェクトを覚悟で投稿したのだ。投稿すると、もし原稿が認められたらなどとよこしまな想念が浮かんでくる。
フモトミズナラのタイプ標本を作成したのは元東京大学植物園の大場さんだ。彼はフモトミズナラをコナラの亜種として位置づけた。どうみてもコナラとは関連が薄く、愛知教育大学の芹沢さんがミズナラの変種に学名変更を行った。私はフモトミズナラの根が地中に斜めに伸びることを見いだしたので、独立種として命名した。もし論文が通れば命名者名として私の名が残る。これも夢で終わるかも知れない。
懇親会会場を出て、バスに乗り、河原町で降りる。京都セントラルインはすぐそこだ。その日の気温が高いせいなのか、私の熱のせいか定かではないが、ホテルの部屋はかなり暑かった。京都は盆地で、名古屋におとらず暑いことで有名だ。ホテルを出ると、人通りの多いこと。
少し歩くと、高瀬川に出る。あれは何年前だっただろうか、京都駅から京都大学まで歩いたことがある。高瀬川づたいに歩いたのだった。私もまだ若かった。京都の街に惹かれていたのだった。河原町付近の高瀬川沿いを何度行ったり来たりしたことか。
若いカップルや年配のカップルが多いことに気づいた。私は妻と出歩いたことがほとんどないことを、急に思い出した。
ところで川幅が狭く、水量もそれほど多くない高瀬川は加茂川のような大きな川と違って、まさに清流という感じがする。それが京都の町並みとよく合う。
飛騨の高山にも、いくつもの川が街中を流れ、いくつもの橋が掛かっているが、高山には京都の高瀬川のような小川はない。
高瀬川に沿った小路に入り、飲食店を覗いて歩く。
旨そうなネギなどの野菜を店の前に展示している。これが京都九条ネギではないか。玄関を開けて暖簾をくぐったはいいが、さっそく「いちげんさん、おことわり」と言われたわけではないが、丁重に断られた。
何回か断られた後、小さな店で運良く一つ席が空いており、座らせてもらえた。京都弁が飛び交う中、私はすみっこで、小さくなっていた。最初に注文した茄子の煮浸しは旨かった。それは、京都の味のせいなのか、私の空腹のせいか、それは分からない。
翌日の日曜日。昼過ぎには名古屋に着いてしまった。こんな早い時間に家に帰るわけにはいかない。今となっては、どこをどう歩いて過ごしたのか覚えていないが、夕方には家に戻った。
それから二週間、月・火・水と豊橋へ通い、あとの木・金・土・日と寝て過ごす日々が続いた。帰りの名鉄電車で冷えると、震えがくるのである。また菌が繁殖したのだろう。さすがにもう終わりかと覚悟した。
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