新フィールドノート
−その122−



東北地方太平洋沖地震の間接的体験
 広木詔三


 晴天の霹靂という言葉がある。今日、四月十五日金曜日。かけはしの原稿依頼が箕浦さんからきた。原稿依頼が来たくらいで晴天の霹靂というのは大げさである。
 今年三月十一日の午後二時四十六分頃、それは晴天の霹靂だった。おそらく岩手県を中心とした東北地方の人たちにとっては。
 そのとき私は地下鉄金山駅の地下鉄構内の中にあるコーヒーショップでコーヒーを飲んでいた。
 三角形の電灯の傘がスローモーションの映像のように大きく揺れた。右へ左へと大きく何度も動いた。ああ揺れているなと感じた。体も揺れを感じていた。誰かが地震だと言った。そのとき初めて眠りからさめたように地震という言葉が意識に上った。
 かつて名古屋大学に在職時代に、生協の食堂で、テーブルがブルブルと振動して、一瞬地震ではないかと疑った。どうやら私の心臓の鼓動のせいらしかった。そういうことがしばしばあった。高血圧のせいであることは後に知った。その後間もなく心房細動が頻発し、横断歩道で立ち往生して車に轢かれかかったり、出張の帰りに東京駅のプラットホームから新幹線に乗り込むとき、そのわずかなひとときに心臓がぱくぱくし、足を動かすことができず、もうこれまでか、と何度感じたことか。やっとの思いで電車に乗り込み、1時間以上も座席に座っていてようやくなんとか心房細動も収まるのだった。情報科学研究科棟の研究室からトイレに行くまでのほんのわずかの距離なのにあまりに鼓動が激しくなると脳への酸素供給が足りなくなり、すうーっと気を失いかける。夜横になると心臓の鼓動がとても大きくなり、襖に背を凭れながら寝るということも続いた。その後医者に通い、血圧を下げる薬をもらい、今でも飲んでいる。
 電灯の傘の揺れはまだ続いていた。地下なのにこれほどの横揺れはこれまでに経験したことがない。
 雷と地震は恐怖症といってもよいくらい苦手だったが、釧路で植物学会があったとき、泊まったホテルの部屋が十階以上だっただろうか、地震が起こり、揺れに揺れた。それからである地震に恐怖を感じなくなったのは。恐怖は人間の想像力の賜物である。もちろん、多くの動物も恐怖を感じるので、三半規管で日常的でない感覚をキャッチするからではあるが。危険が迫っているという感じと、どう行動したらよいか分からないというとき恐れを感じるのであろう。一度死ぬ思いを経験してから死が怖くなくなった。釧路での地震を経験した後、地震にたいする恐怖はなくなった。 
 まわりの客が地震だ地震だと言い出す中、私はコーヒーを飲むのをやめてコーヒーショップを出た。歩き出すと地震の揺れは心臓の鼓動と区別がつかなくなり、揺れているという感じは実際に揺れているのか、さきほどコーヒーショップで感じた記憶なのか判別がつかない。恐怖は感じなかったが不安はあった。改札口を出て、金山駅の外に出たが行く当てもないのでまた地下鉄にもどり、切符を買って名城線のホームで電車を待った。
 震源地は岩手県という情報と茨城県という情報が錯綜していた。後に、震源域が広域的な巨大地震だったことが分かった。コーヒーショップでコーヒーを飲んでいたのが十四時五十分頃であったから、地震の震動が名古屋地方に達するのに四、五分掛かったのではないだろうか。正確な伝搬速度は知らない。
 その後、栄の丸善で地震に関する書籍のコーナーが設けられていて、たまたま『新版活動期に入った地震列島』(岩波書店、尾池和夫著)を見つけた。本の中では、西南日本における巨大地震の予測はあるが東北日本については確率は低くなっていた。今回の地震は千年に一度という規模なので無理はない。ネットによれば再来期間は五百年程度ともっと短い可能性もある。正式名称は東北地方太平洋沖地震となっていた。
 二〇〇八年五月に、中国で四川大地震が起こっている。このときの震源域は二百キロメートル以上にもおよぶ巨大なもので、ヒマラヤ造山運動のプロセスを実感させるような巨大な地震であった。このとき私は国立科学博物館でダーウィン展を見に東京に出てきており、夜に飲食店のテレビで知ったのだった。
 地震といえば、私の手元に、『秀吉を襲った大地震』(寒川旭著、平凡社新書)がある。戦国時代の一五八六年に、天正地震が中部地方と近畿地方を襲ったという。このとき豊臣秀吉は琵琶湖の西南端にあった坂本城にいたが、地震に驚き、ただちに大阪に逃げ戻ったという。それから天下をとり朝鮮半島へも出兵した秀吉は十年後の一五九六年に伏見地震に襲われる。伏見城は倒壊し、多くの死者が出たという。この本の二十一ページには「当時天下をほぼ掌中にした秀吉だが、大自然の巨大なエネルギーに対しては、一人の無力な人間に過ぎなかった。」と記されている。
 地震考古学の発展により、過去の地震の記録も次第に明らかにされつつあるが、今回の太平洋沖の深い海の震源地に関してはまだまだ情報が少ないと思われる。なにより、太平洋プレートと北アメリカプレートが連動して、大きな地震が日本海側でも起こっている。この日本海側や新潟の地震は余震ではなく誘発地震だということである。
 今回の東日本大震災は地震に津波に原発事故と三位一体の最悪の災害となった。日本ばかりでなく、世界的に原子力発電の危険性を見直すという世論が高まっている。
 私も地球環境問題という授業で、原発の事故と放射性廃棄物の危険性を取り上げてはいたが現実に起こってしまうと生易しい問題ではないと感じる。
 私がまだ若い頃、授業で公害問題をよく取り上げたものだが(日本の公害問題は世界的な教訓なので、今でも地球環境問題で取り上げているが)、宇井純さんの『公害原論』の中で運動にコミットしていない人間に公害問題を語る資格はないと指摘されていることが気になった。後に宇井さんには沖縄で直接お会いした折にそのことを話すと、俺も若かったからな、と話してくれた。
 これからは、実際に原発事故が起こってしまったため、別の意味で授業がやりにくい。単なる自然科学上の素養では済まず、災害対策の問題や国の政策という側面を抜きに語れないからである。私の手にはあまる。
 豊橋駅には高校生や、ときには岡崎短大生が募金を募っている光景を見かける。
 三月二十八日に、国立国会図書館に行き、田中壌の『校正大日本植物帯調査報告』の復刻版を借りようとした。ところが地震のせいで書庫から本が落ちてまだ整理されていないから閲覧できないという。いつから見ることが出来るかと問うと、四月一日から、という。あと四日ではないか。わざわざ名古屋から出てきたのに、とも思ったが、そのとき地震の影響を間接的に体験したと感じた。
 帰りに渋谷で京王井の頭線に乗り、明大前で降りて娘の家に行き、孫の保育園まで迎えに行った。それから孫と二人で新幹線に乗り名古屋の我が家に戻った。
 もう一人で寝ることが出来ると言っていたのに、夜には妻が添い寝をしなければならなかった。普段は死にそうなのに、孫が来ると生き返ったようになる。現金なものだ。孫は夜中に何度か飛び起きたという。震度五以上の地震を生まれて初めて体験したのだから無理もない。


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