新フィールドノート
−その121−
岡崎の丘陵地からボローニャに思いを馳せる
広木詔三
矢作川を超え、岡崎公園駅を通過するとまもなく乙川が見えてくる。電車が乙川を越えるほんのひととき、川の蛇行に沿って絵のような世界が広がる。土手のうえの桜並木はまだ冬枯れの状態を呈している。おそらく冬芽が膨らんでいるのだろう、木立がぼおーっと霞んでいて春の兆しが感じられる。現在形で書くと、これはもう虚構である。今現在、研究室のコンピュータに向かって書いているのだから。私はコンピュータを携帯することはないので、電車の中で原稿を書くことはない。いや、書き出しは家でパソコンに打ち込んだものだから、今現在、研究室のコンピュータに向かって、という表現自体が事実でない。
これまでも、ときどき事実と違うなと感じることはあったが、おおむね事実をもとに書くように努力してきたつもりである。しかし、前回のかけはしでは違った。意図的に創作したのだった。前回は、山形大学の辻村さん宛てに出した手紙のように書いているが、実際には手紙は出していない。裏磐梯のブナに関する論文のやりとりはすべてメールで済ませている。仙台に出張したことや学生時代の記憶は事実にもとづいているが、手紙形式にした点ではっきりと創作であることを意識した。
井上ひさしの作品に、『十二人の手紙』というのがある。十二の物語り全部が手紙からなっている。その最初の「悪魔」という作品では、主人公である幸子が就職して東京に出るのだが、見送りにきた先生へのお礼や、両親や友人宛の手紙から構成されている。弟宛のものもあり、最後の手紙は獄中から弟宛の手紙で終わる。上京するとき見送ってもらった先生には丁寧な手紙を書いている。友人宛の手紙では本音が述べられていて別人のようである。友人宛の手紙で、勤めた会社の社長の愛人になり、ふとした行きがかりで社長の娘を殺してしまうという次第が徐々に明かされるというしかけになっている。
乙川を越えると、まもなく東岡崎駅に到着する。特急だから東岡崎駅を発車すると、もう次は豊橋まで停まらない。
東岡崎駅から二つ目の駅の見合を過ぎると、市街地が消え、田園地帯が広がり、再び乙川に出合う。川幅が狭いが相変わらず蛇行している。乙川に沿ってニワウルシの優占する林がある。遠くに森林に覆われた丘陵が見える。丘陵と乙川の間に水平に水田地帯が広がり、ニワウルシの林は砂漠のオアシスのように見える。
藤川の駅を過ぎるあたりから丘陵が迫ってくる。遠くに見えた愛知産業大学の白い建物が間近に見える。
読みかけの井上ひさしの作品『ボローニャ紀行』(文藝春秋)をまた手に取る。毎日一章ずつ読むのを楽しみにしている。
ボローニャの空港で、運転手かと思っていた男たちに、わずか五、六秒のすきにア・テストーニの鞄を掠め取られた話が最初の章で語られる。よくある話である。だが、井上ひさしの手にかかると、これまたたいへん面白い。
ボローニャは職人の町だという。しかも世界的に有名なギルドの制度もまだ残っているそうだ。古い伝統を生かして新しい技術を開発するという。これをボローニャ方式と呼ぶそうだ。大きな犠牲を払って、煉瓦工場の職工たちが、自分たちの手でナチスのドイツ軍を街から撃退したという話もある。
修道院やスパゲッティにまつわる面白い話を読んでいると、ボローニャに行った気分になる。
一つの章を読み終えて、目を窓の外にやると、常緑のツブラジイ林が目に入る。まだ冬枯れの雑木林が常緑樹林の中に混じっている。
研究室に着いて、レポートの採点にとりかかる。二つの授業でほぼ四百もあるからたいへんである。授業のタイトルは「地球環境問題」というものである。どうして私がこのような授業をしなければならないかはよく理解できない。
ふと大河内直彦の『チェンジング・ブルー』(岩波書店)という本が書棚にあることに気がついた。気候変動に関わる理論的な研究の基礎を解説したものである。
長らく疑問であった、どうして海底堆積物から過去の海水温を推定することが出来るのかとか、どうして南極の氷から過去の大気の気温が推定可能なのか、とかがたいへん分かりやすく解説されている。
過去の海水温の推定の研究に携わったイタリアのエミリアーニという研究者が紹介されている。彼は有孔虫という微小な生き物の研究で、ボローニャ大学で学位を取り、後にシカゴ大学で海底堆積物中の酸素同位体比を測定することになる。
井上ひさしの『ボローニャ紀行』を読んだばかりだから、エミリアーニに親近感を覚えた。
それだからというわけでもないとは思うが、これまで得体の知れない有孔虫というものが身近になり、エミリアーニがシカゴ大学で測定したという酸素同位体比というものがこれまた身近に感じられたのである。
有孔虫の殻を形成している炭酸カルシウムの中に、大気中にわずかに含まれている質量十八の酸素が取り込まれ、死んだ有孔虫が海底に堆積する。時間とともに質量十八の酸素は壊変して消失していく。その半減期と比較することによって、時間の経過が推定できるという仕組みだ。
採点のために無理して出勤し風邪をこじらせてしばらく休んだ。もう今度こそおしまいか、という気がした。ようやく締め切り前に採点表を提出し、今度は次年度のシラバス作成だ。
どういうわけか研究室のパソコンにはロックが掛かっておりしかたなく情報メデイアセンターでシラバスの打ち込みをする。ウインドウズが不慣れで頻繁にアルバイトの学生さんに応援を頼む。ぎりぎりに入力して研究室に戻ると、箕浦さんから原稿依頼のメールが届いている。
原稿が完成せず、やむなく帰途につく。豊橋鉄道の愛知大学前から夕焼けが見える。ようやく日が長くなり始める。
名鉄電車が豊橋駅から発車して、豊橋駅が遠くに見えるようになったとき、西の空に満月が見えた。もう空はすでに暗く、月はおよそ三十度の高さであった。
1日ごとに十五度ほど月の出が遅れるので明日かあさってには、夕焼けどきに月が顔を出すに違いない。
残念ながら次の日は雲っていて月は見えず、その次の日は日曜日であった。
去年の四月、菜の花が咲いている時期に乙川で日没と満月を見たことを思い出す。まさに与謝蕪村の句のとおりであった。
毎年同じ月の同じ日に、このような光景が見られるわけではない。満月になる日は一年で十日ほどずれてしまうからである。このことは帰宅時間がまいにち同じになって初めて分かった。
しかし、菜の花の開花期間がかなり長いので、運が良ければ菜の花の時期に日没とともに満月を見ることができる。運が良ければというのは、晴れていないと月が見れないのである。
私の予想では、今年は三月十九日に満月になる見込みである。(あとで1ページ分原稿が足りないのに気づき、満月の話はあとで挿入したものである)
今日、翌日の土曜日。かけはしの原稿を仕上げて帰途につく。
名鉄電車の一番前の展望席に陣取る。つまり最後尾だ。外はすでに暗い。オレンジの街灯が次々と去ってゆく。レールも電柱もあっという間に遠ざかる。すべてが瞬時に過去に過ぎ去る。
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