新フィールドノート
−その118−



松本
 広木詔三


 今年の春学期の試験採点の締め切り日は八月四日であった。(今年ようやく3年目にして我ながら授業がうまくいったという感触を得た。)六日には組合の執行委員会が午前十時から車道校舎で開かれた。いつもは昼休みだけなのだが、夏休み期間とあってじゅうぶん時間が取れるというわけだ。ただ書記長は豊橋校舎の勤務であるため執行委員会のために休暇を取らなければならないそうなのだ。午後の六時過ぎまで掛かって、ようやく終わった。私はほどんど何も分からなくぼーっとしていた。終わってからの懇親会に参加した。愛知大学は文系の大学にふさわしく、多くの人は授業以外にはめったに顔を出さない。役職についている先生は結構忙しそうだが。私は特任教員なので、授業だけをすれば良い。それで他の先生と顔を合わせる機会はほとんどない。勧められるままに組合に加入し、三年目に執行委員に選ばれてしまった。私は特任なので断ったのだが私を採用したときの学部長にまあまあと肩をたたかれて引き受けてしまった。組合といえば名古屋大学時代を思い出す。名古屋大学の教養部に着任して、先輩で同僚でもある松原輝男さんに、組合は勉強になるぞと誘われて、それ以来ずっと組合が空気みたいなものであった(当時は組合に入っていない人はよっぽどの変わり者だったという時代だった)。思えばとても懐かしい。情報文化学部の時代から情報科学研究科に移って退職するまでのあいだがもっとも記憶が鮮明である。どんな記憶かというと、現在はきれいな情報文化学部棟と共通教育棟が接続している凹型の形をしている中庭で、毎年夏にビアガーデンを開いたことだ。一人でわびしく赤提灯で飲む酒とちがって、多くの仲間と、ときには大学院生という若者とともに過ごす時間はとても楽しいひとときであった。ときには西川夫妻のように、お子さん連れのこともあった。西川先生の子供さんは男の子と女の子の双子で、とても活発で、小さな花火を打ち上げたのも楽しい思い出である。また、ときには守衛さんが飛んできたので謝ったこともあった。生ビールをそそぐ装置のセットはいつも箕浦さんにお願いしてお世話になった。まだ明るい昼のうちから大勢の人に混じってビールを飲むと、普段の辛い状況を忘れることが出来る。当時、茂登山先生が、同じく組合の執行委員であった。この茂登山先生の指導生である二人の女子学生が私の大学院の授業を受けたことがある。出身大学では美術系の分野を専攻してきたということであった。私の授業など受けてもよいのだろうかという気がしたが、美学的にも生き物には関心があるという。彼女たちが、学内で展示会を開いたとき見に行ったことを記憶している。二人とも才能が感じられた。そのことはかけはしにも書いた。私の講義題目は「生態系時空間情報論」というものであった。毎年、四十人ちかくの院生が受講しているなかで、私の研究室の院生の数は毎年一人いるかいないかであった。それで専門の森林生態学ではなく生き物の進化に関わる内容をテーマにしていた。この「生態系時空間情報論」は私自身が設定した唯一の講義題目であった。さすがに一年目はわれながら準備が十分でなく、羊頭苦肉で申し訳ないと院生に謝った。このことをかけはしに書いたら、当時情報科学研究科副研究科長をしていた横澤さんからクレームがついた。人間情報学研究科時代に行っていた授業は「生物群集構造論」というものだった。これは同僚であった松原さんが設定したものである。情報文化学部や人間情報学研究科の授業科目の設定には松原さんが関与していた。私が五十六歳のとき、教授に昇任して人間情報学研究科から情報科学研究科に移籍した。そしてようやく松原さんから独立したのであった。いろいろと思い出のある時代であった。情報科学研究科に移った頃に、中庭で開かれたビアガーデンに、人間情報学研究科を卒業した院生でポスドクでアメリカに留学しているという若者が参加した。量子力学のミクロの世界を探求していると言う。私の生物群集構造論が印象に残っていると言う。若い有能な人にそう言われて気分の悪いはずはない。お互いにかけ離れた分野どうしの人間であったが、大いに議論を楽しんだ。彼の顔も名前も今では覚えていないが、そのときの中庭の草の緑の印象と場の雰囲気は今なお鮮明である。名古屋大学を離れて、このような知的なデイスカッションが途絶えて久しい。ところで車道での執行委員会が終了してからどうしたかというと、名古屋駅に移動して居酒屋で懇談し、それが終了した後、私はJRで多治見へと向かった。どこか中央線の先の小さな駅が大雨のため電車が一時停車したままになった。名古屋駅周辺に宿泊すればよかったと思ったが時はすでに遅かった。しばらくして電車が動き出し、やがて多治見駅に到着する。予約しておいたビジネスホテルに着いて、クーラーを朝まで切らないで冷え切ってしまうのではないかと受付で尋ねると、お客さん、ここは日本一暑いんですよ、クーラーは切らない方がいいですよ、と言われた。そう言えば、多治見で七月に三十八点九度という最高気温を記録して熊谷と最高気温を争ったニュースを思い出した。電話のモーニングコールで普段より早めに起き、朝食を取り、臨時の特急で松本に向かった。松本では、バス停でバスに乗るまでのあいだじゅうずっと、ぼんぼん、ぼんぼんという歌がつづいていた。その日は松本のぼんぼん祭りの日だったのである。ところで、バスを降りて大学の門を入るとなんだか感じが変だ。案内のチラシを確かめると松本大学は松本から松本電鉄に乗り換えるとあった。今いる門の表札を見ると、そこはなんと信州大学ではないか。これまで二、三度、学会で来たことがあり、名古屋大学を退職する間際に信州大学を通り越した浅間温泉の裏山にクヌギのどんぐりの野外播種実験に秋と、その次の春の初めと終わりと、三度つづけて通ったものだから、無意識のうちに信州大学に向かってしまったのだった。どうしてクヌギのどんぐりを播いたのかというと、ふつうコナラやアベマキという落葉樹のどんぐりは木から落ちるとすぐに発芽して根を伸ばす。それにたいして常緑樹のアラカシやシラカシは翌年の初夏に発芽する。実験からクヌギは落葉樹にもかかわらず、年を越して発芽することが予想された。しかしクヌギのどんぐりの発芽時期は春ではないかと推測された。そこで名古屋市内の名城公園にあるクヌギ林で、九月半ばにどんぐりを拾い、松本の浅間温泉街の裏山で、ねずみにどんぐりを食われないように金網で上下を覆って雑木林の地面の枯葉の下に埋めた。次の年の春早く、金網をはずしてどんぐりを確かめると一部発芽しているものがあり、春の終わりにはほとんどが発芽していた。長年の感で成功したから良いが、この野外実験はある種の賭けであった。いつ発芽するか分からないのだから、一週間おきに定期的に観察しないとあぶないのである。国立大学が法人化したあとであるから出張旅費が出るようになってはいたが、国立大学の時代には研究費を旅費として使えない時代が長いこと続いたせいで、旅費を節約するというのが習慣になっているのだった。
 愛知大学の研究室でかけはしの原稿を書くと、いつも帰りの時間が迫り、原稿を書くのを中断しなければならない。今回は、家で寝る前の間に頭に浮かんだとおりにそのまま書き連ねた。
 松本大学で開催された全国私立大学教育研究集会の開会式では、中島先生が全大教の委員長として挨拶したことを最後に付け加えておく。


  前回     メニューへ    次回  
  
新フィールドノート
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp