新フィールドノート
−その116−



藤川
 広木詔三


 三月の二十日、桜の花がちらほらと咲き始めた。今日は愛知大学の卒業式である。
 久しぶりにフィールドに出かけたのは、それよりもひと月ほど前の二月二十四日であった。その日は、それまでの寒風の吹きつける日々とは違って、晴れて暖かく野外調査には絶好の日和であった。
 名鉄の藤川駅で降り、目指すはアカマツ林である。
 この二年間、土・日を除いてほぼ毎日名鉄電車で豊橋まで通ったが、車窓から見る東三河の丘陵にはアカマツが見あたらないのである。
 たしか三十年以上前に見たときはアカマツ林がかなり占めていたはずだ。ところが現在はアカマツの影もない。無理もない。当時、東三河の丘陵で松枯れが猛威をふるっていたのだから。
 でも特急電車の猛スピードのなかでじっと目を凝らすと尾根あたりにアカマツらしきものが見えるではないか。
 授業で東三河における松林の消失に触れたとき、アカマツがまだ残っているかどうか自信がもてなかった。それで現場で確認することにしたのだった。
 藤川駅には高校生の他に愛知産業大学の学生さんらしき人たちが電車を待っていた。藤川駅を出ると愛知産業大学の白い建物の一画が目に入った。
 車が途切れなく走っている道路の横断歩道を渡り、藤川駅の向いの丘陵の裾づたいに歩く。
 家並みの裏手に入るともう林が見える。案の定、松枯れ跡地に出会う。枯れた松以外にも健全な松もあった。
 天候も良く、穏やかな日だったので、さらに足をのばした。林道を入っていくと、だんだんと坂道になって、次第に傾斜が急になる。久しぶりに野外の自然に接して気分がいい。
 尾根に出ると見晴らしがよく向かいに群がる愛知産業大学の建物が見渡せる。
 この尾根にも健全なアカマツがわずかに残っていた。だが、どこまでアカマツ林が広がっていたかを判別するのは困難だ。
 枯れ葉を踏みしめて尾根から下りながら、そのうちゆとりができたら、松枯れ跡の森林の遷移を調べて歩き回ろう。
 今日は三月十九日、しばらく雨がちであったが、新聞の朝刊には、晴れと出ていた。かけはし用の松枯れの写真を撮ろうと決心した。新聞には晴れとあったが、家を出るころには雲が厚く覆っていて、ところどころ日が差す程度だ。出かけるかどうか迷った。風が猛烈に吹き、雲も飛ぶように進む。一縷の望みに期待し、名鉄神宮で市バスを降り、名鉄電車に乗る。その間曇ったり晴れ間が出たりと天気は目まぐるしく変わる。藤川駅を降りて、晴れ間の一瞬を捉えて撮影したのが本文中の写真である。

アカマツ

 その日のその後は完全に晴れ渡り、その日は十キロメートル以上も雑木林を歩き回ってしまった。帰りに藤川の街を歩くと、東海道五十三次の宿場町とあり、あちこちに宿場の名所が保存されている。しかし、疲れ果ててそれどころではなかった。
 今年も岡崎に花見に出かけた。三月二十五日、岡崎では五分咲きであった。名鉄の東岡崎駅を出て、地下道をくぐり、地上に出て少し行くと明大橋に出る。明大橋を渡りかけて乙川が見え出すと、乙川に沿って猛烈な風が吹きつける。あまりの寒さですぐさま引き返した。
 四月に入っても電車から見える岡崎の桜は散る様子がない。昨年と同様、四月の七、八、九日と日没間際に岡崎の乙川に通った。残念ながら、雲に覆われていて、去年のように月の出は見ることが出来なかった。そもそも毎年同じ日に、日没のときに月が出るものだろうか、という疑問がふと湧いた。松尾芭蕉の
 菜の花や月は東に日は西にという句は菜の花がまさに春を示している。この句を読めるチャンスはそうないのではないだろうか。今年のように雨や曇りの日が続いたってだめだ。去年の四月、芭蕉の句と同じ状況に遭遇したのはなかなかの幸運だったのではないだろうか。
 今日は四月二十日。桜は疾うに散って新緑の季節だ。
 図書館でアリストテレス全集の一つを借り出す。アリストテレスが生き物が自然に発生するという説を取っていたということを確かめるためだ。ウナギが泥の中から発生すると解説書には書いてあるからだ。
 アリストテレスの『動物誌』を開いてみて驚いた。動物学の祖と言われているだけあって、多くの動物が詳しく記載されている。多くの動物の解剖もしているそうだ。魚類はちゃんと産卵すると記している。自然に発生するとしたのは海産動物を含めた下等な動物群である。ウナギは魚の中でもアリストテレスの手に負えなかったようだ。それもそのはず、ウナギの産卵場所が深海であることが突き止められたのは比較的最近のことなのだから。
 春のセメスターで、私は生物の科学という授業を担当している。なぜ生物学でなく生物の科学という授業題目になっているのかというその来歴は知らない。
 一昨年の受講者はおよそ三百五十人だったが、今年は二百十人ほどである。今年ようやく受講制限を二百人とする制度がスタートしたのだ。
 私のこの授業は、ギリシャ時代のアリストテレスから始まる。つい、どうしてターレスは万物の根源を水と考えたのかだとか、古代原子論の立場のデモクリトスは真空中を原子が飛び交うと考えたのに、どうしてアリストテレスは「自然は真空を嫌う」と真空の存在を否定したのかなどと話を広げると、学生の中にはこれは授業を間違えたかなと思う者も出てくる。
 トリチェリーが水銀を用いて真空の存在を示したのと同じ十七世紀に、フランシスコ・レディは、肉汁の入った皿にガーゼを覆って、アリストテレスが自然に発生すると見なしたハエでも親の産んだ卵から生ずることを実証した。
 およそ二千年後に、二つの点で、偉大なアリストテレスの考えが訂正されたのだった。
 それで生命の自然発生説は消えたかというと、そうではない。十七世紀にはすでにオランダで顕微鏡が発明されていて、微生物の存在が知られていた。
 十八世紀には、微生物が自然に発生しうるかどうかという熾烈な論争が行われたのである。片やイタリアのスパランツァーニは自然発生説を否定し、他方イギリスのニーダムはそれを否定するというように。
 フラスコに肉汁を入れ、綿で栓をすると外界の空気から肉汁は遮断される。フラスコを熱し、煮沸すると、フラスコ内には微生物は生じない。ニーダムはスパランツァーニの実験結果は認めたものの、フラスコ内の空気を長時間熱したせいだと異論を唱えた。空気そのものに生命を生み出す源が存在するという。
 パスツールは、フラスコの口を細長く湾曲させて空気が自由に出入りするようにした。熱するとフラスコ内の蒸気が外に押し出され、冷却すると外の新鮮な空気がまたフラスコ内に入る。だが、微生物は生じない。湾曲した細いガラスの管からは微生物が侵入できないという。
 微生物も自然に発生しないことが実証されたのである。
 今日は豊橋に一泊する。明日は朝の一限目なのである。
 はなの舞という居酒屋で、〆切りに追われた原稿に手を入れる。
 このはなの舞という店には花の舞という冷酒がある。五年前のことである。妻に代わって週に一度、浜松まで孫のおもりに通っていたのは。その頃である。花の舞という浜松の酒を知ったのは。
 当時は、豊橋に通うようになるとは夢にも思いもしなかった。


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