新フィールドノート
−その113−



神宮前
 広木詔三


 久しぶりにまた十月に台風がやってきた。台風十八号は伊勢湾台風並みだという予報であった。幸い高潮時とずれ被害は少なかったようだ。
 十月八日の午後三時頃、神宮前で名鉄電車に乗ろうとした。午後の会議は延期になったので特別の用事があるわけではない。今から行っても仕事になるわけでもない。
 神宮前につくと、特急は運休であった。しかたがないので、熱田神宮に向かう。そこで恐ろしい光景に出会った。カラスがスダジイの実を嘴で割って食べているではないか。実験材料としてときどきスダジイを拾いに来たことがあるが、こんなことは初めてである。
 四時頃になって神宮前の改札口を通ると、特急が運行するようになっていた。ミューチケット(特別車両券) を購入しようとすると今日はミューチケットを売らないという。ダイヤが乱れているので指定がきかないのだ。
 特急電車のパノラマカーは一番前のパノラマ席からは窓ガラスの前方を眺めることが出来る。それで私はいつもパノラマカーに乗り込み、景色を眺めるのを楽しみにしている。
 驚いたことに、パノラマカーの展望席で永田君と一緒になった。彼は岐阜から通っている学生だ。特別車両券は片道三百五十円だが、毎日乗ると馬鹿にならない。岐阜駅で、普段は乗らない展望席が今日は無料だと知ったので乗ってきたという。彼はいつもぎゅうぎゅう詰めの電車で通っているのだ。
 話をしているうちに、いつもと違ってなんだか景色の眺めがいい。その訳は、午後の四時頃という時間帯のせいであることが分かった。午前中は日差しが前方からくるが、陽の落ちはじめる今どきは、田畑や家並みが西日に照らされて明るく輝き、まるで風景が絵に描いたようなのだ。
 特急は豊橋まで行かず、伊奈止まりである。永田君と別れて私は東岡崎で降り、乙川の川べりに向かう。ヒガンバナが咲いているのである。毎日電車から眺めていたが、今日は間近で一目見るいいチャンスである。今年は涼しい日が続いたせいか彼岸をとおに過ぎてもまだヒガンバナが咲いている。
 現在、九月に裏磐梯高原で調べたミズナラの侵入過程に関する論文を書いている。たった一日調査した結果で論文が書けるほど甘くはないことは重々承知している。
 どうしてかけはしのように書けないのかと我ながらもどかしい。当然のことだが論文は論理構成がしっかりしていないといけない。だからかけはしとは違う。しかし、八月のお盆のころに、短期間で英文の論文を一つ仕上げている。日本語と比べると英文の方が書きやすいとも感じた。そのうち英語でエッセイも書けるかな、などと思い上がっている。
 この歳になってようやく一人前になった感じだ。遅きに失した感はぬぐえない。リジェクトされた論文は数えきれないのだから。
 実のところ、裏磐梯高原には観光気分で出かけたのである。個人研究費は旅費にも使えるというではないか。昨年は授業に追われてゆとりがなかく、研究のけの字もなかった。今年は授業の準備も少しは楽になり余裕が出来たことも大きい。
 大学院時代に六年も通った裏磐梯高原をもう一度ゆっくりと見て回りたいと思ったのであった。火口近くのブナの老木の写真も撮りたいというのが一番の狙いであった。大学院時代に撮った写真は、へたくそな上に薄汚れている。コダックのいいフイルムを使うようになったのは、かつて愛知県立芸術短期大学で写真に凝っていた娘に教わってからだ。
 幸い、山形大学の辻村君とも連絡が取れ、車で回れることになった。辻村君というのは東北大学の後輩である。そういう仲であるから、彼と久しぶりに裏磐梯高原のいい旅館で、夜に一杯やりながら昔話に花を咲かせようという魂胆だったのである。ところが、前号に書いたように、彼は学生さんたちと山形大学の宿泊施設に泊まらなければならなくなったのだった。
 それでも車であちこち回るあいだや、昼食後に喫茶店で一服しているときに、いろいろ昔話ができた。私が博士課程三年のとき、彼はたしか修士の一年で、他の多くの後輩たちと磐梯山に登った記憶がある。佐藤千代さんという可愛い四年生も一緒だった。彼女の顔は良く覚えているのだが、辻村君が佐藤さんの名前を出してもなかなか彼女の顔と名前が一致しなかった。彼女の名前と顔が一致したのは辻村君と別れて一人で裏磐梯高原を歩いているさなかであった。
 久しぶりに出会う植物に、名前の思い出せないものが多い。でもだんだん思い出してくる。ツル性のカラハナソウも思い出した。我ながらよく思い出せたと自分に感心したほどである。まあ六年も通ったのだから当たり前ではある。
 話は変わるが、最近、私は自分が卒業論文を書いていないことに気づいた。自分だけだと思っていた。お茶を飲んでいるとき、辻村君にそのことを話すと彼は「あの頃は卒業論文なんてなかったですよ」と言う。それで私は安心した。だが、私が四年生のとき、同級の平井という男が「俺は卒論を英語で書いた」と自慢していたのを覚えている。だが、当時、私は卒論たるものがどういうものか知らなかったのだ。
 名古屋大学に勤めるようになって、松原さんという二歳年上の同僚とどんぐりに関する共同研究を始めるようになった。私が日本語で書いた論文を見て、松原さんが「だらだらしてエッセイのようだ」と評したのを今でも良く覚えている。
 私は学位を取得して五年後に英文の論文として仕上げた。今だったら、英文が一つもなくては、少なくとも自然科学の分野では、学位の取得は不可能であろう。
 裏磐梯におけるミズナラの侵入に関する論文を書く上で引用するために自分の論文を読み返してみた。あまりにも記載的な内容で、今では論文として通用しないであろう。裏磐梯高原の山腹から山麓にかけてほぼ十キロ四方をただかけずり回ったというのが実状である。当時は研究の目的というのが頭になかったのである。研究者には向いていなかったのかも知れない。
 いや、先輩や同僚がおらず、もまれなかったせいもあるだろう。当時は放任主義で私はほんとにのほほんとしていたなと我ながら思う。
 今回、裏磐梯高原での調査結果をまとめながら、研究対象が複雑なことに気づいた。いや、対象が複雑なことは当初から気づいていた。複雑な対象を複雑なままで、と思い上がっていた面もある。
 とくに自然科学の研究方法は、複雑な対象を単純な要素に分解し解析して一般的な法則を見いだす、というのが通例である。しかし、最近、複雑系という複雑な対象もコンピュータの発達でかなり扱えるようになってきた。とはいっても、実際の複雑な対象と比べるとかなり近似的であることは否めない。しかしながら、ティエラとかいう人工生命が生態系を演じ出しているそうだ。侮れない。
 話は裏磐梯高原に戻る。白雲荘で一泊した翌日、遷移が進んだミズナラ林を見いだしたのであった。それよりなにより感動したのは、自分の論文の図に記載したハンノキ林に出会ったことである。まだ存在していたのだ。おそらく我が国で唯一天然の成熟したハンノキ林であろう。
 神宮前の居酒屋で、今も一杯やりながらかけはしの原稿に手をいれ、私しか知らないハンノキ林に思いを馳せるのであった。


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