新フィールドノート
−その112−



裏磐梯高原
 広木詔三


 久しぶりにフイールドに出かける。会津磐梯山に調査に行くのである。
 私の本来のフイールドノートの記録は2007年十月以来空白になっている。
 山形大学の辻村氏に連絡を取り、日程を調整した。彼の車に便乗し、あちこち見て回るのである。裏磐梯高原の一画に山形大学の宿泊施設があり、その施設は森林や湖沼の調査に利用されている。彼も学生を引き連れて調査に来る。
 私もこの山形大学の施設には大学院生時代かなり世話になった。自炊しなければならないのでたいへんだったけれども。だから、今回はちゃんとした宿に泊まるつもりである。愛知大学から出張の旅費も出る。
 辻村氏はたいへん忙しい。あるときは、今日は八時間も会議でしたなどというメールがきた。そんなメールを見ると、私にもそのような過酷な時期があったな、という記憶がかすかに浮かぶ。
 ようやく、お互いの日程の調整がつき九月の初旬に出かけることになった。一緒に宿に泊まり、研究の話や昔話しが出来ると期待をしていた。ところが、学生は、男子と女子なので、二人きりにするわけにはいかないと言う。私は一人で宿を取ることになった。
 辻村氏の助言で、宿泊のネット検索をしてみた。慣れないためネットではかなり不安がつきまとう。たとえば宿の位置の図がいまいちはっきりしない。そこで、観光ガイドの本を買い込んで、直接電話で予約を取った。
 いよいよ出発という前の日に台風十一号が近づいた。幸い関東地方にずれて、翌九月一日は新幹線も通常どおり運行した。
 出発の前の晩、妻の調子が悪い。本来なら出発を取りやめるべきだが、せっかく台風も逸れたことだし、この機会は逃したくない。辻村氏の車に頼らないと行けない所が多いのである。若い頃のように歩きまくることは到底できない。
 妻は目覚めていたが、心を鬼にして家を出た。
 久しぶりの新幹線。東京駅で東北新幹線に乗り換える。郡山から磐越西線に乗り継ぐ。どういうわけか郡山から猪苗代までの景色はいつ見ても殺風景である。三十分もすると、猪苗代駅に近づく。車窓から磐梯山が見えてくる。磐梯山の山頂部は厚い雲に覆われている。
 猪苗代駅を出てバスの停留場に行く。ふと見ると、駅前の小さな空き地にヨシ原がまだ残っている。大学院に進学して、指導教官の吉岡邦二先生に、磐梯山のフイールドを案内していただいたのを昨日のように思い出す。そのとき見たヨシ原がとても強く印象に残ったのだった。JR猪苗代駅周辺は近年さびれているという話をあとで聞いた。
 バスの待合室に着くと、裏磐梯高原行きのバスが見当たらない。だだっぴろく薄暗いさびれた建物の中に中年の女性が一人居た。聞くと、裏磐梯高原行きのバス停は他の場所に移動したという。バスを運営する会社が変わったらしい。
 バスに乗り、猪苗代の町を出ると、いつものように見慣れた水田の風景が広がる。もう黄色く色づいている。
 五色沼入り口で下車して宿を探した。ところが裏磐梯国民宿舎の案内がどこにも無い。ガイドブックでは方角がはっきりしない。五色沼方面に行きかけたが不安になってまたバス停に引き返した。荷物が重く、足取りも重い。午後の五時を過ぎて、ビジターセンターも閉まっている。車は通るが歩いている人影はない。なによりも問題なのは公衆電話がないことだ。私は携帯電話をもっていないのである。日が暮れかかかってきた。大学院時代に、日暮れに山腹の森の中でさまよった体験が一瞬脳裏に蘇った。携帯を持たないと生きて行けないのだ。改めて時代の恐しさを感じた。
 幸いにも、バス停に人が来た。地元の仕事帰りのおばさんたちだ。裏磐梯国民宿舎の場所を尋ねて、なんとかたどり着いた。
 宿の部屋の窓から外を見ると、空はまだ明るく、夕焼けで少し色づいた磐梯山が見えた。山頂には雲がかかっているが、肌色の火口壁がくっきりと見える。そのときはっきり思い出した。この宿のこの同じ部屋に、以前にも泊まったことがあることを。夢の記憶ではない。
 翌朝、辻村氏が迎えに来た。朝の六時に山形を立ったという。まずは長瀬川に沿って、ススキ草原の現状を見に行った。川上という部落から川べりに下り、車を止めて、そこから歩いて行った。別荘地帯を通りぬけると小さな流水路が我々を遮り、そこから先は長靴でないと進めなかった。ススキの草原は見当たらず、森林化しているようであった。断念して引き上げた。別荘には人の住んでいる気配がなかった。バブルがはじけた後遺症であろうか。開発が進んで、ススキ草原の遷移を見届けるのは不可能だろうと予想していたので、その点はラッキーであった。長靴を用意してまた来よう。
 コンビニで手に入れた握り飯を車の中で食べたのち、ゴールドライン方面に向かった。
 目指すは猫魔八方台である。そこから火口の裏手の山道に入る。1888年の噴火で噴出物に覆われた後に成長したブナの若木に混じってブナの老木が点在する。この写真を撮って、引き返した。
 その晩は他に宿が取れなくて、裏磐梯高原ホテルに泊まった。一泊二万円もする。愛知大学から出張旅費が出るのだから思い切り贅沢をしよう。(あとで出張報告書を提出したときに上限が一万一千円であることを知らされた。)
 ホテルの裏庭は弥六沼に面している。部屋の窓からは磐梯山が正面に見える。夕暮れ前に一瞬雲が消え、山頂が姿を現した。生まれて初めて泊まる豪華なホテルである。大学院時代、いつもこの前を歩いて通ったことを思い出す。夕食の料理は豪華であったが、残念ながら前日の裏磐梯国民宿舎で出たワラビを全部食べたため、食欲がなく、一口づつ箸をつけただけであった。その後部屋に戻り、十畳以上もある広い畳の部屋で、何もせずにただ寝るときのくるのを待った。私はテレビはNHKの将棋番組しか見ないのである。そのときどういうわけか電話が目に入り、家に電話をかけた。何度かけてもつながらなかった。これまで調査に出かけて、家に電話したことはなかったのである。
 一抹の不安はあったが、それからさらに二泊した。
 翌日、桧原湖を周回して湖畔のハンノキ林を見てまわった。昼食後、喫茶店で研究の話や昔話をし、次の宿泊予定の白雲荘まで送ってもらう。辻村氏は次の日から火口での学生さんの調査に同行するという。私は同行するのを遠慮した。足手まといになる。
 さらにその翌日、もう目的は達したので帰ってしまおうかと考えた。せっかくだから中瀬沼を見て帰ることにした。白雲荘から近いのである。散歩がてらに歩いているうち、思わぬ発見をした。ミズナラ林やイタヤカエデの発達した森林を見つけたのである。大学院時代から四十年が経過し、遷移が進んでいることは明らかだ。もはや観光気分でいる場合ではない。
 さらにその翌日、会津若松まで足をのばす。電車の中で、一瞬、妻はもう居ないという感情にとらわれる。会津若松行きの電車から見た磐梯山はまたもや厚い雲に覆われていた。


  前回     メニューへ    次回  
  
新フィールドノート
kyoshoku-c@coop.nagoya-u.ac.jp