新フィールドノート
−その111−
飛騨高山
広木詔三
久しぶりに高山へ出かけた。どんぐりの話をするように頼まれたのである。
話をするのは5月24日であるが、私は前日から一泊する。朝一番に出るのが辛いし、前の晩に高山で一杯やるという楽しみもある。
温泉で有名な下呂を過ぎるあたりから新緑が目につくようになる。名鉄沿線の丘陵地帯が芽吹いたのはもうひと月以上も前のことだ。高山に近づくと標高が高くなり、山地の風景が現れる。山地の新緑はまた格別である。このように感じるのは、最近とみにフイールドに出ないせいかも知れない。
宿に着いたときは午後の六時を過ぎていたが、日が延びてまだ明るい。宮川のほとりに出ると、ああ高山や、高山や、という感じを味わえる。高山祭りのときに山車が通る橋の赤い欄干も目につく。高山ならではの風情である。だが、残念ながら、川のにおいが臭い。富栄養化が進んでいるのだろう。
日も暮れかかった頃に、なじみの古澤という居酒屋に行く。なじみといっても、穂高に調査に通っていたころに二、三度行ったことがあるだけだが。
その店のわきには裏手につづく小さな小道がある。その小道の両側には、猫の額ほどの小さな庭園があり、さまざまな草花や苗木が植えてある。オダマキがちょうど花を咲かせている。その他にもいろいろな花が咲いている。今はそういう季節なのである。だが名前を思い出せないものが多い。草本は研究の対象ではないと軽視していたせいだろうか、それとも神経が死につつあるのだろうか。これはやばいぞ、と思う。
ついに日が暮れて、植物の識別どころか、暗くて何も見えなくなる。年をとるごとに、明るい光のもとでないと字が読めなくなる。すっかり暗くなって、表に回り、いよいよ店に入る。
古澤という店の壁には1メートルもあるかと思われる魚拓が貼付けられている。店の主は、ずっと名古屋に住んでいて、高山に腰を落ち着けたのは比較的近年のことであるという。特別旨いものがあるわけではないのだが、名古屋あたりのチェーン店とは雰囲気が違う。酒の突出しがまた旨い。だが、この原稿を書いている今現在、そこでしか飲めない酒の名前が思い出せない。これはやばいぞ。
どんぐりの話を終えて、すぐ高山駅に出て、電車に乗る。明るい時刻に高山駅から電車に乗るのも久しぶりである。いつだったか、なにげなしに週刊文春という週刊誌を買ったことがある。意外に面白く、高山から名古屋までの間に隅から隅まで読んだ記憶がある。
そのなかでも印象的だったのは、林真理子の「夜ふけのなわとび」というエッセーであった。なんと連載が千回を超えていた。私のかけはしでの連載の十倍もある。さすがは作家である。そのときの内容は、自分の少々太り気味なことをネタに、ダイエットについて論じたもので、他愛もない。しかし、週刊誌での連載である。毎週書かねばならない。締め切りに追われていやな夢は見ないのであろうか。とにかく連載は千回を超している。さすがは作家である。
ところで今回もまた高山駅で週刊文春を抱えて電車に乗り込んだ。林真理子の連載は千百十一回となっていた。
そこには森光子の話が載っていた。林芙美子の「放浪記」の二千回達成の話だ。切符が運良く手に入っただの、和田アキ子が見にきただの、まあ芸能界の裏話といったところだ。だが、「放浪記」の公演二千回達成というくだりで、驚いた。近年とみにテレビを見なくなってから世間に疎く、森光子がなにやら話題になっているなという感じであったが、林芙美子を二千回も演じたというのはとてつもないことに違いない。イチロー選手に匹敵するな、と思っていたところ、森光子の年が八十九歳というのが目についた。そんな年には見えなかった。森光子には関心がなかったのだ。
井上ひさしが『太鼓たたいて笛ふいて』という林芙美子の芝居の脚本を書いている。戦時中に軍隊について行き、作家として戦果を本国に知らせる役割を果たし、戦後に戦争の忌まわしい実態を命を削って記録に残そうとした、という。
森光子も命をかけて林芙美子を演じてきたのではないか。林真理子のエッセーを読むと、そういう気がしてくる。森光子が舞台に立つと、血の気がさし、とても若わかしくなるという。とても八十九歳には見えないという。エッセーの小見出しには、「死ぬ日に向けて生きていく」とあった。森光子は数多くの病気と闘い、ガンになったこともある。まさに命をかけて林芙美子を演じてきたと言える。
原稿のスペースがだいぶ余っているので、林真理子の文章の書き出しを引用する。
『物書きのサガというより、私個人の資質であろうが、人が、いい、いい、と言っているものはどうしても見たくなる。なんでそんなに人気があるのか知りたくなる。
上野の国立博物館へ。阿修羅像を見に行ってきた。ニュースで「三時間半待ちの行列」と聞くたびに、この天平の美少年にどうしても会いたくなった。』
この書き出しから、森光子の「放浪記」二千回公演のチケット入手奮戦記が描かれる。さすが売れっ子の作家だけあって、なかなか読ませる。
その後、テレビでの森光子のインタビューの話に移る。新聞に「年老いた芸能人をさらし者にするな」という投書が載ったそうだ。
ところが公演が近づくにつれ、森光子の顔が生き生きとし出し、先に触れた公演の話につながるというわけである。
命を削りながら書いている作家のあさましさや哀れさと共に、もうじき死んでいく人の予兆のようなものを演じきっていると言うのである。
「死ぬ日に向けて生きて行く」という小見出しのタイトルは、林芙美子の痛烈な自己反省にもとづいて命を賭けて書くことと、まさに命を賭けて、芙美子を演じきっている森光子の生き様を同時に言い表しているように受け取れる。
私の妻は、命を賭けるようなことはしないが、まさに「死ぬ日に向けて生きて行く」を実践しているとも言える。秋から冬にかけて、そして春の終わり頃まで、かろうじて生き延びる。初夏になり、気温が高くなると、俄然元気が出る。何をするかといえば、デパートへ行って、買い物をする。それ以外はいつも家でテレビを見ている。
主治医の広瀬先生に十年は持ちますよと言われて三十年以上が経った。うっかりすると私の方があぶない。
そういう妻が青森に行ってしまった。父親の介護をしている妹があぶないという。妻は生きて帰れるだろうか、気がかりだ。
話は変わるが、授業中に漢字が書けないことが多い。日本語はひらがながあるからいいですね、と言って誤摩化している。
去年よりはだいぶ楽とはいえ、金曜の受講者は三限が二百人、四限が百人である。
授業が終わって研究室へ戻る途中で、たびたび「お疲れのようですね」と声をかけられる。自分ではまだ授業中に張り切った気分が続いているつもりなのだが、気が抜けているのだろう。人に言われて、そういう自分に気づくと、疲れがどっと押し寄せてくる。森光子は公演が終ると、抜け殻のようになった、と真理子は書いている。そのことがよく分かる。
授業は生き甲斐とまでは言えないが、授業を終えた後に、辛いことを乗り越えたという喜びが湧いてくる。
今日は土曜日。かけはしを書くために出てきたのだ。これも小さな生き甲斐の一つである。
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