新フィールドノート
−その110−



岡崎
 広木詔三


 今日は四月八日。愛知大学の豊橋キャンパスはソメイヨシノが満開を過ぎ、ちらほらと花びらが散り始めている。
 夕べは豊橋に宿泊して、朝の一限目に出た。新入生の入門ゼミのクラス分けを行うのである。
 二限目は、私の担当する十五名で、さっそく自己紹介を行う。
 ゼミは早めに切り上げて、生協の食堂へと向かう。生協は豊橋キャンパスの副門の右手に在り、副門の左手には、満開の桜並木が覆う。
 生協の一階は書籍と文房具が片側に並び、その反対側にはフードショップがある。ら旋階段を上ると、二階はかなり広い食堂となっている。全面ガラス張りの窓から、桜の樹冠が見渡せる。
 食堂から出ると、向かいには桜が一面に咲いている。豊橋鉄道の電車が停まり、電車から降りた学生たちが、副門から入ってくる。哲学の森に沿った桜並木を右手にカーブしながら、学生たちは、図書館と哲学の森の木立の間を通って、講義棟や本部事務棟へと向かう。私は桜並木から離れて、真っすぐ五号館へと向かう。副門から五号館の私の部屋までおよそ五分の距離である。
 三限目は演習だ。学生は一人しかいない。あと二人ほど登録しているはずだが出席しない。坂野君という学生は、自分一人だけなのを知ってたいへん驚いている。まあ、おどろくことはないよ。私は平然と言う。演習室がとても冷えていたので、外へ出て、テラスでお茶を飲みながら雑談をした。彼についてのおおよその情報を得たところで演習を早めに切り上げる。
 さて、あさっての金曜日の授業の準備に取りかかろう。今年は何百人くるのだろう。去年は三限がおよそ三百五十人で四限が三百人ほどだった。
 授業の準備も早めに切り上げ、研究室を出る。五号館の私の部屋から豊橋鉄道の電車に乗り込むまでに約六分である。しまった、あと五分しかない。少し小走りになる。電車が到着するとチンチンチンと音を鳴らすのですぐ分かる。副門まで着けばしめたものだ。電車に乗り込む前に車掌が笛を鳴らす。飛び込むと同時にドアが閉まる。走ると心臓に応える。
 六分ほどで新豊橋駅に到着する。豊橋で名鉄に乗り換え、途中、岡崎駅で下車する。改札を出て、地下道をくぐって、向かいの道をまっすぐ行くと、乙川に出る。
 明代橋の上を行くと、乙川の向こう岸の桜並木がちょうど満開である。土手の斜面がグリーンに栄え、菜の花も咲いている。丸い月も見える。ふと反対側を見やると、太陽が沈んで行く。その右手には岡崎城の一部が見える。
あかあかと 陽は落ちにけり 岡崎城
 季語が入っていないのに気づく。初心者なのでまあいいか。季語を入れてつくり直した。
菜の花や 陽は落ちにけり 岡崎城

 今日は四月九日。教授会の日だ。私の給料は安く、教授会には出なくてもよいことになっている。しかし、できるだけ出るようにしている。今日は教授会が早く終わった。そこで、早めに研究室を出て電車に乗り、今日もまた岡崎に寄る。
 明代橋に着く。ソメイヨシノはまだ散りはじめていない。橋からの川の眺めは美しい。満開の桜があかみを増している。黄色い菜の花と土手の緑色が鮮やかだ。乙川の上流は蛇行して岡崎の丘陵へと消えて行く。気がつくと月が無い。反対側では今日も陽が沈もうとしている。
 明代橋を渡って、土手の桜を上からのぞき込む。陽の光を通して、桜の花びらが逆光に照り輝く。また橋に戻ると、陽が沈み、ぼんぼりに明かりが灯される。裸電球に照らされた桜の花が鮮やかさを増す。暗くなると、ぼんぼりが水面に映りはじめる。
 すると、赤い月が丘陵の上に顔を出す。満月だ。やがて時間がたつにつれて月は黄色くなる。水面には金色の月が映っている。波で洗われ、上下に長細くモザイク状にきらきらしている。上空にのぼると月は白くなってしまった。
夜桜や 陽は落ちにけり 白い月

 今日は四月十日、金曜日。三限目も四限目も受講者は百五十人程度だ。詰めれば六百人も入る広い講義室なので、閑散としていてかえってやりにくい。
 授業を終えると、今日も岡崎へ、である。来週の準備に手間どり、ひと電車遅れたため、日没には間に合わず、陽の沈むのを見ることが出来なかった。月も出ていなかった。桜は散り始めていた。
 帰りがけに、居酒屋で一杯やりながら、かけはしの原稿を書く。来年の桜の季節が待ち遠しいことよ。だが、桜の花の花びらがもうすぐ散ってしまうように、我が命も消えてしまっているだろう。
暗闇に 花びらも散り 月も無し
 
 話は変わるが、最近、光田和伸の『芭蕉めざめる』という本を手に入れた。芭蕉が隠密だったという謎解きの本である。松本清張をはじめとする隠密説は在野では知られていたが、学会からは無視されてきたという。
 光田氏自身も初めはこの説を信じていなかったが、芭蕉が宿の手配を自分で行った気配が無いことに気づき、いろいろと調べ始めたという。
 芭蕉の出生が伊賀上野で、その出生から謎が解き明かされていく。母の素性もいわく因縁つきだ。芭蕉は少年の頃に、藤堂義忠に仕えた。芭蕉はこの頃俳句を習った。義忠の死とともに藤堂家を離れ、江戸に立つ。
 芭蕉の勤め先と住み家も、また謎に満ちている、という。俳諧で身を立てようとしたが、将軍家の代替わりで、芭蕉は仕事をはずされ、その後、奥の細道へと向かうのである。このような悲運が芭蕉を育てたという。
 光田氏の芭蕉隠密説の解釈の要は、芭蕉が伊達藩の領地内では歌会を開いていない、という点である。伊達藩に着く前の白川や、伊達藩を立って山形の尾花沢で歌会を開いて長逗留をしているという。江戸幕府と伊達藩は緊張関係にあり、隠密と怪しまれたらたいへんである。実は、本来の隠密の仕事は弟子の曽良が行い、芭蕉は単なる随伴者だったという。芭蕉は俳諧氏として有名なので、関所を怪しまれず通れただろうというのである。
 曽良のしたためた日記は、役目を果たした記録であるという。そういえば、井上ひさしの『四千万歩の男』に出てくる伊能忠敬も几帳面に日記をつけていた。

 そういえば、話はさらに変わるが、去年の四月三日に、私は名古屋大学から愛知大学へと引っ越しをしたのだった。
 実験室の解体と薬品の処分にまる二年を費やした。ボルトを何百本とはずした。心房細動という心臓がぶるぶる震える症状に毎日悩まされていた頃だから慎重に少しずつ解体していった。
 三月十日には、最終講義も無事終了した。有田先生をはじめ創発システム論講座の先生がたには、終了後のパーテイを開いていただいた。かつての教養部から情報文化学部と移り、何となく居候という感じの存在であったが、終わり良ければすべて良しという諺のように、最終講義とそのあとのパーテイは、とても楽しく嬉しいものだった。
 来る日も来る日も、部屋の片付けをした。三月の末に、会計の加島さんが、四月から赴任予定の人と部屋を見に来た。山のように散らかっていた私の部屋を見て、たいへん驚いた様子だった。その日は、夜中まで掛けて、すべて廊下に出した。それから毎日廊下で整理を行った。本を書く上で必要最小限の文献だけを残して段ボールに詰めた。
 去年の四月三日に引っ越しをしてから。私の第二の人生が始まったのである。


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