新フィールドノート
−その109−
開聞岳その後
広木詔三
今日、二月十七日。久しぶりにメールを開く。
箕浦さんから、かけはし原稿の依頼が届いている。日付は十四日である。一瞬、あせった。この三週間ほど、学生の試験とレポートの採点に明け暮れていたのである。その数は、なんと九百八十もあるのだ。今日あたり箕浦さんから催促があるかと予想はしていたのだが、十四日とは予想以上に早い。あさっての十九日が採点の締め切り日なので、それまで待ってくれるようにメールでお願いした。
新フイールド・ノートは、前回の百八話で終わるつもりだったが、尻切れとんぼになってしまった。桜島や開聞岳に行くことになったいきさつも、肝心のその後の経過にも触れずじまいだった。
前回、締め切り間際に原稿の有無の問い合わせがあった。すぐに書き始めたが、開聞岳の話にさしかかったところで夕方の六時になってしまった。字数をそろえて原稿を送った。言い訳はこれくらいにしよう。
さて、話は開聞駅に戻る。
無人駅のプラットホームの前には、小さな菜の花畑がある。明るい春の日差しを受けて、ナノハナの黄色い花が咲いている。よく見ると、花のあいだを蜜蜂が飛び交っている。ナノハナの花を間近で見るのも初めてだが、蜜蜂を見たのも初めてのような気がした。注意が向くと、意外と数が多いのに気づいた。寺田寅彦を見習って、数を数えようかとも考えたがそれは止めた。
どのくらいの時間が経過しただろうか、駅に人が現れはじめた。そのうち電車が到着して、我々はそれに乗り、指宿方面に向かった。
来たときと同じように、指宿枕崎線は山川駅で乗り換えだ。山川駅からは鹿児島中央駅まで直行だ。指宿を過ぎて、三つ目に薩摩今和泉(さつまいまいずみ)という駅がある。そこには、今(といっても去年のことだが)、NHKの朝のドラマで話題になっている篤姫の実家があるそうだ。しかし、なにしろ強行軍なので、観光をしている暇はない。
その日は鹿児島市内に泊まる。まだ明るいうちから街なかをうろつく。暗くなりかけた頃に一軒の居酒屋に入る。店の主人の勧めで、近くの島で醸成したという焼酎を注文する。刺身にはやはりあまい醤油がついてくる。だが焼酎は水のようである。ためしに水を飲んでみたが、やはり水とは違うようだ。
話を先に急ごう。翌日は鹿児島中央から特急で博多に向かう。博多の宿に荷物を預けたのち、日本生態学会の懇親会場に赴く。講演要旨を受け取り、必要最小限の情報を得る。例えば、三宅島の噴火後の植生の状況とかのポスター発表を見る。
懇親会では、名古屋大学を卒業した水谷君が現れた。ミズナラのどんぐりの豊凶に関する最新のデータをもっているという。どんぐりの豊凶と熊の出没との関係はまだ十分には明らかにされていない。その福井県におけるデータはまだ決定的とは言えないが、ミズナラの凶作がブナの凶作と重なってクマの行動に影響を及ぼした可能性を示唆していた。その後、印刷された論文が送られてきた。
懇親会の後、小林君の他に、環境学研究科の富田君と、もう一人農学部の女子学生の四人で博多駅裏の居酒屋に繰り出した。そこでは小林君の独壇場である。
小林君は地方の私学の工学部の出である。卒業研究で、アユの地域個体群の遺伝子解析を行っていた。大学院の入学試験で、英語の成績は悪かったが、専門の試験問題に遺伝子のPCR解析の問題が出たことが幸いして彼は合格した。
小林君が挨拶にきたとき、私は部屋に居なかった。手塚先生が、小林君に会って、すぐに実験することを勧めた。手塚先生は、早速百万円ほどの遺伝子解析装置を購入し、小林君は入学する前の九月末から実験を始めた。シイの雑種の遺伝子解析のテーマは、手塚先生と小林君とで勝手に進めたのである。だが、このことが小林君の運命を決めたともいえる。
小林君は手先が器用で、彼の実験結果はきわめて信頼できる。遺伝子解析について無知な私が言えることではないが。
ツブラジイとスダジイが同一種か別種かは長年意見が分かれていた。別種という立場は少数派だった。私が果実の形状で十年以上も調べたが十分に明らかにすることが出来なかった。小林君の遺伝子解析の結果が出るのはかなり後のことであるが、小林君は表皮組織の構造に違いのあるのを発見した。ツブラジイの表皮組織の細胞は、一層であるが、スダジイのそれは二層なのである。これは大きな発見であった。雑種では、表皮組織が一層と二層のキメラ状になる。このことは両者が別種であることを物語っている。当時は遺伝子が万能という風潮が残っていて、形態学的な事実は軽視されがちであった。後に遺伝子解析の結果も別種であることが裏付けられた。
小林君の実質的な指導は手塚先生だったと言える。いや、小林君は遺伝子解析の技術を十分に会得していた。手先はきわめて器用なのである。シイの雑種の表皮組織のキメラ構造を発見したのも彼の手の器用さと観察眼のよさのなせるわざである。
問題は英語であった。彼がまともに英語の論文が読めるようになるには長い年月が掛かった。修士の頃は、ほとんど毎日英語づけであった。
学位を取得して、小林君は情報学研究所にポスドクとして採用され、手先の器用さを生かして情報処理の仕事をしている。それと同時に、シイに関する研究も続け、毎年いくつかの学会で発表している。小林君の努力のおかげで、ツブラジイとスダジイの間には雑種があるらしいということがようやく認められつつある。
まだ解決していない大きな問題は、スダジイの起源にかんするものである。
ツブラジイとスダジイの分布には奇妙な関係のあることは、私が研究を始めるまえにすでに知られていた。両種はサンドイッチ状に分布しているのである。どういうことかと言うと、水平的にも垂直的にもスダジイがツブラジイを取り囲むように分布しているのである。
九州南部ではスダジイが優勢で、本州の中部地方ではツブラジイが分布し、関東地方や佐渡ヶ島ではまたスダジイの分布圏になる。垂直的には、海岸部ではスダジイが見られ、内陸部に入るとツブラジイに置き換わり、山頂部になるとまたスダジイに代わる。
両種がこのような分布パターンを示すに至った要因としては、人間によるスダジイの伝搬が関わっている、というのが私の仮説である。だが、証拠はない。小林君の遺伝子解析もそこまでは明らかにしていない。
そもそも伊豆諸島に分布するスダジイはどのようにして起源したのか。謎である。海流説を考えた人もいるが、あり得ない。鳥が運ぶことも無いとは言えないが、有りそうにない。人間が運んだとしたら単純明快である。
私自身は遺伝子解析に関しては素人であるが、小林君の研究を通じてずっと遺伝子解析の分野を見守ってきた。最初はよく知らなかったので、遺伝子解析が打ち出の小槌のように思われた。ところが、実際はそうではない。対象に合った解析方法を開発しなければならない。解析をする前に、問題が見えていなければならない。やみくもに解析しても意味がないし、問題が見えていなければ解析しようとすることもない。
スダジイの起源については、アイデアはあるが、実証するのは困難である。
琉球列島にはスダジイと変種の関係にあるオキナワジイが分布している。このオキナワジイが本州に分布域を拡大してスダジイを生んだ可能性が考えられる。実証できないのが残念だ。
研究環境が整っていればとも考える。だが、若くなければだめである。情熱も必要だ。
もう時間もない。
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