新フィールドノート
−その108−



開聞岳
 広木詔三


 日本航空の航空機は無事、宮崎空港に着陸した。今年の三月十四日の午後五時半頃であった。
 もう外は暗く、暗い中を、空港に接続されているJR電車に乗り込み、宮崎駅へと向かった。
 一昨年の十月に、植生学会が開かれたときは、横殴りの雨が吹き付けていて、宿に着いたときはかなり濡れてしまっていたことを思い出す。
 昨年のサンマの味をもう一度という魂胆で、宮崎市内に宿を取ったのだが、もうすでに中部空港で飲んだビールで目が回り、宿に着くなりそのまま寝てしまった。
 翌日、早々と日豊本線に乗り、西鹿児島へと向かった。桜島に行くのである。西鹿児島駅を降り、桟橋に出て、連絡船に乗り込んだ。二十代半ばにも、連絡船に乗ったはずだがまったく記憶にない。十分少々で対岸の桟橋に着いてしまうのだから記憶にないのも無理はない。
 もう研究ともおさらばで、この先も長くはあるまい。まがりなりにも火山植生の研究に携わった者として、桜島をこの目でもう一度見ておこうと考えたのだった。
 時間の節約のためにタクシーに乗った。往復で一万円という交渉をした。学生時代にはタクシーに乗るなんて考えられないことである。
 タクシーの運転手に文明の溶岩まで行くように頼んだ。年代の分かっている古い溶岩には、安永と文明の時代に流れたものがあり、両者の堆積年代にはおよそ三百年ものへだたりがあり、かつて撮った写真がどちらか分からなくなってしまったのだ。
 タクシーの運転手は私が文明溶岩に行きたがっているのが解せない様子だ。文明溶岩の場所に着くと、私はタクシーには駐車場で待ってもらって文明溶岩が見渡せるところまで上って行った。全然写真と面影が違う。それは残念ながら、遷移が進んだせいではなく、人為的な影響によるものだった。堰堤が造られ見るも無惨であった。もはや植生の遷移を追うことは不可能な状態であった。山本周五郎の「野分」に、好きになった乙女に振られて、男が彼女に出会わなければ良かったと後悔する場面が出てくるが、まさにこのときの私の気持ちも同じであった。桜島を見なければよかった、と後悔した。
 引き返そうとすると、タクシーの運ちゃんがもっと良い所があると観光を進める。一万円にしてはいくら何でも帰りが早すぎるのだろう。私は気持ちが沈んで観光どころではない。だが、断りきれず、せめて峠までという誘いに乗って、峠まで行ってもらった。そこからは、なるほど桜島が大隅半島とくっついているあたり一帯が見渡せる。後で帰ってから桜島の論文を読み返したとき、このときの眺望が大いに役に立った。
 大学院の修士課程二年に、桜島を訪れたときは、まだ研究目的も十分な認識のないままで、とにかく会津磐梯山に通っていただけだった。それでも、その頃に桜島を実際に見ておこうとしたのは、我ながら良い心がけであったと自分を褒めてやりたいという気がする。
 当時、つまり二十代半ばに、桜島を見て回り、その帰りに、鹿児島大学に寄った。そこの理学部には、桜島の火山植生の研究で世界的に知られている田川日出夫先生が居たのである。突然押し掛けたにもかかわらず、田川先生から、親切にもいろいろと教えていただいたことを昨日のように覚えている。若い頃には田川先生の仕事を超えようという意識もあったが、残念ながら果たせなかった。
 峠から港に引き返した後、また連絡船に乗り、西鹿児島から指宿に向かった。その晩は指宿に宿を取った。前もって予約しておいたのである。指宿は温泉で有名であるが、うらぶれた小さな町であった。
 小さな町なので一回りするとどこにどんな店があるか分かってしまう。料亭みたいな店も有ることはあったが、これが彼の名だたる指宿か、という感じがする。夕食をとった居酒屋は、時間とともに込んで来て、断られる客も出るほどだった。私以外はみな地元のなじみ客のような感じであった。
 驚いたのは、刺身についてきた醤油の味が甘かったことだ。九州では、醤油が甘いということは聞いて知っていたつもりだったが、すっかり忘れていた。若い頃にはソースなど使ったことのない者にとって、甘い醤油なぞとはぞっとする代ものと思っていたところ、予想外に旨かった。甘い醤油が、である。九州の人間は酒よりも焼酎を好んで飲むと聞いていたが、この甘い醤油ならさもありなん、という気がした。だが、残念ながら、焼酎は飲み慣れていないのでビールで我慢した。刺身の味はすっかり忘れてしまったが、甘い醤油の味は忘れがたい。
 食事の後宿に帰った。宿はビジネスホテルで、料金は四千円であった。予約したとき、今時いやに安いなと感じた記憶がある。かつては、朝食付きで四千円というような安宿によく泊まったものだ。法人化する前の国立大学では研究の旅費が出なかったのである。科研費に縁のない者にとっては、調査は自費で行かねばならなかったのである。
 指宿の宿に泊まってみて納得した。三階より上に宿泊室があり、階下はスナックであった。夜の九時頃にアモバンという常用の睡眠薬を飲んだが、がんがん音がひびいて寝付けなっかった。いっそのこと自分も歌いに行った方がよっぽどましであると思った。さすがに十二時には音が小さくなった。
 翌朝、宿では食事がでないので町中を歩き回った。食堂や喫茶店が一軒も見当たらず少なからずあせった。かなり歩き回って、ほかほか弁当屋を一軒見つけて、朝食にありつくことが出来た。
 いよいよ目的の開聞岳に向かうべく、指宿枕崎線に乗り込んだ。ところが指宿から一つ目の山川という駅で乗り継ぎとなった。二時間以上も待たなくてはならないという。トンネルの向こうには開聞岳が見えるはずなのだ。このまま二時間以上も無為に過ごすのもなんだか馬鹿らしい気がして、山川駅の前にたむろしていたタクシーの運転手に相談した。トンネルの向こうならやはり開聞岳が見えるそうだ。そこでタクシーに乗り、トンネルを迂回してもらうことにした。そのタクシーの運ちゃんは、この辺には何とかの松があるとかどうとか、なんとか観光案内をしたがるのである。私はトンネルを超えて、少なくとも次の駅につれてってもらえればよいだけなのだが、結局一駅通り越して二つ目の駅まで連れて行かれてしまった。
 連れて行かれた駅は、日本最南端のJR駅だと言うことであった。駅と言っても、無人駅で、観光客がちらほら来る以外には人もまばらで、薄曇りではあったが、空は晴れていて、開聞岳を間近に見ることが出来たので、結果としては良かったのであった。時間を忘れている頃に電車がやってきて、それに乗って三つ目の駅が開聞という駅であった。
 駅からは荷物を抱えながら山道を歩いた。目指すはスダジイである。小林君、彼は私のもとで博士の学位を取得した唯一の人物である。その小林君が学会で南九州におけるシイ類の分布の発表をしたのである。それで私は開聞岳のスダジイを見に行ったのであった。
 スダジイを実際にこの目で見た後、開聞駅に戻った。そこはやはり無人駅で、駅前にはまだ葉を展開していない桜の木々が立ち並び、その間で菜の花が咲いていた。その向こうには、二件の洋館があり、その風景は別世界のようであった。それは時間を忘れたひととき。二度と味わえない過去のひととき。


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