新フィールドノート
−その107−



武蔵野の雑木林でさまよって
 広木詔三


 私には友人と呼べる人間が一人いる。H君である。高校の三年のときに親しくなった。彼とは中学校も一緒だったが、中学生時代は彼の顔を知っているだけだった。私は彼を知っていたが、彼は私を知らなかったはずだ。
 H君は中学生時代、成績が優秀だった。全学年でトップクラスであった。一年生のとき、彼が英語のテキストの"Fox and Crow"(キツネとカラス)を暗唱して、全生徒の前で発表したことがあった。いやでも彼の顔を覚えた。彼の普段の態度はたいへん生意気に見えた。その他にも、トップクラスの成績の者は何人かいたが、彼らはその後H君を除いて東大へ進学した。
 高校三年のとき、どういうわけか彼と親しくなった。まるで恋をしたみたいに、毎日彼と会わないと落ち着かなかった。彼には友人が多く、僕とだけつき合うわけにはいかなかった。彼は音楽に打ち込んでいて、ジャズのドラマーとして公演をすることもあった。私はドレミの音の区別も出来ない音痴だった。中学時代の音楽はペーパー試験で何とかしのいでいた。そういう私にとって、彼が別世界の人間のように写ったのも無理はない。彼とつき合うようになって、喫茶店に入って話をしたり、図書館に行って一緒に受験勉強をしたりした。彼は高校の成績はいまいちで、図書館で朝から晩まで彼の英語の勉強につき合ったこともあった。英語に関しては彼も私に一目おいていた。それで私を利用して英語の猛勉強をしたのである。大学時代にはかなり英語が達者になって、英語のapproximatelyが会話では「まあね」という意味だと得意げに話してくれたこともあった。
 私は水戸市街のはずれに住んでいたが、彼はとなりの勝田市から学校に通っていた。国鉄の常磐線でひとつ隣りの駅である。何度か彼の家にも遊びに行ったこともある。私は熱に浮かされたように、電車に乗らずに歩いて家に帰った記憶もある。お互いにそれぞれ結婚してからは疎遠になってしまったが、彼の夢はよく見た。夢には駅や鉄道線路がよく出てきたものだ。
 当時、水戸二中というのは越境入学するもので溢れていた。電車で通学する連中はどこかかっこよく見える。その一方では、腕に自信のあるものどうしで張り合っている連中もいた。タバコをふかしているヤクザっぽい者もいた。彼はその後どこかの薬学部を卒業して薬剤師になり、薬屋のおやじとして普通の人になった。私が大学の三年生になったとき、わざわざ仙台から離れた町に住んで、電車で大学に通いだしたのは、このような中学生時代の気分を味わおうとしたためかも知れない。どういうわけかこの三年生の半年間は、大学の授業には出ないでしまった。
 H君は東京工業大学を滑って、H大学の工学部に入学した。私は仙台に住んでいたから、東京までしばしば遊びに行ったものだ。五割の学割と鈍行で周遊券を利用すると、当時千円でおつりがきた。
 H大学の工学部のキャンパスは武蔵野にあり、彼の下宿もH大学のキャンパスからそう遠くはなかった。当時は国鉄の武蔵小金井という駅を降りて、彼の下宿までの道にはまだ田園地帯という雰囲気が残っていた。豚を飼っている農家があったり、畑にはホトケノザの可憐な花が咲いていたりして、たいへんのどかであった。ホトケノザの名前を知ったのは、生物学を専攻してからずっと後のことで、名古屋大学のキャンパス内でよく見かけるようになってからである。また、名古屋大学に勤めてから、ブナ科の研究を始め、武蔵野あたりの雑木林がクヌギの林であることを知ったのであった。武蔵野あたりを一人で歩き回ると、当時は住宅街のはずれに雑木林が必ずといっていいほど残っていた。クヌギという名前は知らなくても、経済の高度成長以前の里山の雰囲気は印象深く、国木田独歩の『武蔵野』という本に目を通した記憶もある。いまでは一橋大学のある国立あたりでもクヌギの林はごくまれにしか残っていない。
 大学に進学してから、私は何の目的ももっていなかった。それで勉強もほとんどしなかった。大学が休みのとき、私は水戸の家に帰っていて、たまたまお酒を飲んだ日に、H君が私の家を訪れたことがある。私が酔っぱらって寝ているのを見て、そばに置いてあった大学ノートに「酒は飲んでも飲まれるな」という忠告を書いて去って行った。それからかも知れない。彼が私を疎んじるようになったのは。
 あれはお互いに大学一年生のときだっただろうか。H大学の大講義室の一番前の席にH君と並んで座り、ヘーゲルの哲学の講義を聞いた。いわゆるもぐりであったが、そのときの印象は強く記憶に残っている。その授業のとき、たまたまヘーゲルの弁証法についての説明があり、H君はヘーゲルの「正反合」という弁証法の核心を学んだと喜んでいた。私には何のことか理解出来なかったが、後に社会の発展の法則に関する言明であるということを理解した。社会の発展は歴史的なものであり、歴史の中に法則性を見いだすのは誤りであることをカールポパーが指摘しているが、後に生物学を専攻して、生き物や人間の社会には物理学の法則では律しきれない側面があるということを知ったときに、H君と学んだヘーゲルの弁証法が思い起こされるのであった。
 私は物理学が苦手で、教養課程の物理学の単位はとうとう取得できずじまいに終わった。私は教師になりたいという積極的な気持はなかったが、教職課程の免許には物理学の単位も必要ということで、三年の終わりに教養部まで出かけて行って物理の試験を受けた。見事に落ちてしまった。当時は追試という制度があってもう一度試験を受けた。東京まで出て、H君に力学の特訓を受けた。このような努力のせいで、追試の結果は自分でも不合格と判断できた。ほとんど内容が似た問題であり、結局のところよく分からなかったのである。ところが、担当の教師の研究室の前には試験の結果の貼り紙があり、私は合格となっていた。後に大学院の後期課程在学中に教員採用試験をいくつか受けたのだが、競争率が四十倍以上で、みな不合格になり、やむなく指導教官に研究の継続をお願いしたのであった。
 H君の専攻は当時はやりの電子工学科であった。彼の下宿を訪れると、畳一枚分もある大きな紙に計算を書き連ねているのを見たことがある。その後、彼はH大学工学部の大学院に進み、そして助手になった。彼は中学時代の同級生と結婚した。その結婚式に私は出席した。イチョウ並木から黄色い葉が舞い散る秋のことであった。彼は、やはり中学時代の同級生であるバス会社の社長の娘に想いを寄せていたが、彼女には振られてしまったのである。当時、遠く白樺湖あたりでバイトをしながら、失恋の痛手を乗り越えつつあった心境を手紙に書いてきた。
 H君は現在使われているアンテナに関する発明をし、若くして助教授を追い越して教授に昇格した。
 つい最近、彼から電話があった。ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』の心境だと言う。数年後に研究生活を止めるのが考えられないと言う。工学部長も勤め、最近、国際学会賞も受賞したと言う。もう、思い残すことはないだろう、と言うと、それが違うというのである。悟るのは誰にとっても難しいことだ。
 思うに、私がこれまで頑張ってきたのは彼に対するライバル意識のような気がする。彼にはその気は無いだろうが。


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