新フィールドノート
−その106−



大学院時代から名古屋大学へ
 広木詔三


 話は前号のつづきで大学院に進学してからのことである。橘さんや助手の斎藤さんに言わせると、私はよいテーマを貰ったそうなのだ。その意味は後でよく理解できるのであるが、当時は右も左も分からない状況であった。橘さんが博士過程に進学出来なかったのはテーマのせいにもよるかも知れないと私は勘ぐっている。彼女の研究はアカマツの葉によるアレロパシーの研究であった。鉢で育てた他種の幼植物に、松の葉から抽出した物質をかけてその影響を見るという内容である。私が思うに、その研究はおそらく見込みのないテーマであったようだ。女性だからそもそも博士過程に進学するようなテーマを考えなかったのではないか。もちろん研究はやってみないと分からないという面もある。しかし、多くの場合、研究には何らかの見込みが必要だ。私はその後、アレロパシーには大きな疑惑を常に抱くようになった。誰かが何かのテキストで覚えたアレロパシーについて一般的に論じると、それはまったく嘘臭く感じるのであった。生態学のテキストに載っている明らかなアレロパシーの現象はもちろん知っている。しかし、クスノキやセイタカアワダチソウに関するアレロパシーの話は実際には誤りであろう。単なる被陰による可能性も高い。実証を伴った裏付けはないのである。私は橘さんの研究における失敗の事例を目撃しているので、そのおかげで批判的な目が養われたと思っている。
 私のテーマは先生の最後の弟子という意味合いも込められていたような気がする。残念ながら私には重いテーマであった。六年間、磐梯山の山腹や山麓をかけずりまわり、植生図を作成するという記載で終わった。会津磐梯山の爆発は水蒸気爆発によるもので、溶岩は噴出せず、山体が崩壊して泥流として流下するという性質のものである。溶岩とは異なり、岩石等の風化が速く、したがって遷移の進行も速いことが期待される。アカマツやヤシャブシ等の先駆種のみではなく、一部の区域ではイタヤカエデやミズナラが侵入している。だが、肝心の極相を構成すると予想されるブナの侵入はきわめてわずかであった。
 最近まで、私は研究者として失格だという思いが強かったが、今では悟っている。これから先百年後あるいは二百年後に、ブナ林の形成される時期がやってくるに違いない。私は捨て石になるのだ、と自らを慰めている。
 私は一九七四年の八月一日付けで、名古屋大学の教養部に着任した。生態学の分野も必要になったということであった。環境問題が世論を賑わせた時期である。面接のとき着任したらどんな研究をしたいかと聞かれて面食らってしまった記憶がある。ふと、野外における実験をしたいと答えたのを覚えている。後に、海岸の塩湿地に生育する塩生植物の研究に野外実験として十年取り組んだがこれはまた別の話である。機会があればお話したい。
 当時はのんびりした時代で、昼食時には生物系の教員が全員集まっていろんな話をするのである。あるとき、私は、コナラの"どんぐり"が落ちてすぐ発芽するという話をした。松原さんがそれに飛びついて、それから松原さんとの共同研究が十年以上も続いた。微生物の生理学が専門の松原さんはたいへん優れた研究者だった。あの偉大なパストゥールが目の前にいたら松原さんのようではないかと思えるほどだ。たいへんな集中力と、鋭敏な観察力と鋭くものごとを解析する力にはただただ感服するばかりだ。三十代で、世界の競争相手に打ち勝って来たというだけある。
 スタートは名古屋大学のキャンパス内に生育しているアベマキのどんぐりを毎日拾うことであった。もちろん九月に入ってからである。松原さんの後輩の理学部の院生がそんなこともわかっていないのか、と驚いていた。自然について私達はほとんど何も知らないのだということに気づいたのは彼のおかげかも知れない。十本の樹から落ちたどんぐりを拾うので、ピーク時には千個以上にもなる。そして拾ったどんぐりを恒温槽という器械を使用して発芽させる。一定の温度条件で、シャーレにどんぐりを入れ、水をやる。摂氏五度から五度ごとに三十五度までの七段階の温度条件で実験を行うために、七台の恒温槽を駆り集め、フル回転で使用した。発芽した後は根の長さを測る。一つの温度で百個のどんぐりを使用するから七百個のどんぐりを発芽させたことになる。これをアベマキだけではなく、キャンパス内でどんぐりの拾えるコナラやアラカシをはじめ、遠方から採集してきたものを含めて、十五種の比較を行った。中には発芽するのに半年以上も掛かるものもあるから、実験を行った数年間は明けても暮れても実験であった。また、松原さんは議論が好きで、いつも帰るのが遅くなった。でも、セミナーの経験のなかった私は、デイスカッションの重要性は松原さんとの共同研究で学んだ。
 大学院時代に鍛えられていなかった私は松原さんとの共同研究で鍛えられた。だが、研究内容は高度で、共同研究といっても、私は手足のようなものだった。松原さんが実験をしないという意味ではない。彼は猛烈に実験を行うのだ。私は必死に付いていった。学会で発表するのは私だった。ある年の発表のとき「内容を理解しとけよ」と言われてしまった。今なら研究の内容や位置づけもよく理解出来る。これらの共同研究における主要な成果は六報の論文となった。最初の三つは和文だったため、なかなか引用されず、世界的には注目されずに終わった。松原さんはいい論文なら必ず引用される、と言っていたが、日本人が引用してくれないと、外国人には目が留まらない。やがて、生態学そのものが急速に発展して、私達の研究は古典的な部類に入るようになってしまった。最近でもときどきある学会誌の査読がまわってくる。ときどき古典的な研究も再現する。
 私はその後、愛知大学の市野和夫さんと共同研究をするようになった。スダジイとツブラジイの雑種に関する研究や、三宅島の火山植生に関する研究を始めた。松原さんはそれが気に入らず、それからだんだんと気まずい関係になった。市野さんも生理学が専門で、しかも電気生理学というたいへん難しい分野だ。市野さんも優れた資質を有していたが、私学では実験設備がなく、研究の継続が困難だという。彼は大学の理事をも勤めた有能な人で、彼のおかげで大幸財団から研究助成を受けることが出来、三宅島に一緒に調査に出かけた。大幸財団は権威主義的なところがある。市野さんは仙人のように歩くのが素早く、驚くべきことに、おまけに植物に詳しい。名古屋大学に生態学の講座があったら、彼は生態学の分野で成功していただろうという気がする。松原さんもそうではあったが。松原さんの場合は生理生態学という生理学を基盤とした分野に向いているが、市野さんは植物学全般に優れた感性を有している。とにかく二人の生理学者との共同研究という幸運に恵まれて、火山植生とブナ科の比較生態というささやかな研究を行うことが出来た。学問研究は基本的には個人の営みではあるが、研究そのものは研究組織や人間関係が大きくものをいう。
 今では忘れられつつあるラマルク(進化論の先駆者)や、偉大な詩人のポー(黒猫などで知られる)に私は共感を寄せる。自分を悲劇の主人公と見なして自ら慰めるのである。ポーの大鴉(おおがらす)"The raven"はいつ読んでも素晴らしい。あの大鴉のNevermoreという言葉の響きは決して忘れることはないだろう。


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