新フィールドノート
−その105−



学生時代と言う過去のフィールドにて
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 研究室に着くと、まずコンピューターにスイッチを入れる。そのうちデスクの画面が明るくなる。最近は画面がとても暗い。寿命が近いのかも知れない。でも、そのうち全然暗く感じなくなる。目が慣れるのだろう。
 夜、家で寝るときもそうだ。就寝直前に明かりを小さくする。睡眠薬を飲む。軽いのを一錠。明るい電気を消したときは一瞬、真っ暗に感じる。薬が効いてくるまでにしばらく時間がかかる。そのうち、部屋がとても明るく感じるようになる。書棚の本の背表紙の文字が読める気もしてくる。最近、安売りのブックオフで購入した井上ひさしの本がある。だが、老眼のせいで、さすがに文庫本の背文字までは読めない。
 そうだ、このことをかけはしに書こう、という意識が働く。考え出すと、いろんなことが浮かんできて、いくらでも書けそうである。そういうときは、なかなか寝付けないものである。
 私は昭和三十九年に東北大学の理学部に入学したのだが、当時は学科に所属するのは三年次になってからであった。この当時、就職のしやすさから物理学科や化学科に人気があり、私の成績ではそれは無理であった。数学科と生物学科なら第一志望で進学出来るときいていた。当時の東北大学は仙台の一番町のはずれの片平町にキャンパスがあり、生物学科はそのキャンパスの東北部の隅に位置していた。その古めかしい赤レンガの建物を実際に見学して、第一志望で生物学科を選ぶ決心をしたのだった。三年生として私と一緒に生物学科に進学したのは十七名で、定員の三十名よりもずっと少なかった。その中には、年を食って猛者という感じの、発生学の平井教授の息子というのもいた。
 思い起こしてみると、私は小学校の頃は生き物とその進化に関心があったのだが、高校で生物の遺伝子の分野で赤点を取り、それ以来、生物の勉強はしなくなってしまった。大学の二年次に、体育の実習で蔵王にスキーに出かけ、生物学の試験を受けず単位が足りずあわや留年という経験をした。樹氷も林立しているたいへん急な斜面で滑らされ、恐ろしくなって滑らずにスキーを担いで歩いて降りた記憶がある。生物学は相変わらず苦手で、生化学の最先端の授業が五百人近くのマスプロ教育で行われ、単位を取得したのが嘘のようである。語学の授業は一クラス百人の授業であったが、語学の授業にはすべて真面目に出席した。私はいつも一番後ろに座ったが、当時はおしゃべりをする者はいなかったのでとくに問題はなかった。さまざまな語学の授業があった。英語以外は本当に語学であった。英語のバートランド・ラッセルの哲学書はほとんど理解できなかったが、JDサリンジャーの"The catcher in the rye"は半期で通読した。その後も何度読み返しただろう。テキストが今ではぼろぼろになっている。
 最近、アニタ・シュレーヴの"The last time they met"という本を読み終えた。三度目のチャレンジであった。一度目は三十ページほどでダウンした。二度目はそれより少し進んだ。もう読まずにこの世ともお別れかという比較的最近のことである、ついに読み通したのは。第一章では、それぞれ異なる道を歩んだ五十二歳という老年期にさしかかった男と女が再会し、子供を亡くした話や、互いの過去を話し合う。気づくと本の中に入り込むことが出来た。そうなると分からない単語などを辞書で引くのがまどろっこしくなって辞書を引かなくなる。分からない単語を読み飛ばしてもストーリーはよく分かる。第二章に入ると、彼らが二十七歳のときに、アフリカで最初に再開した場面が描かれる。とても華やかな情景だ。最後の第三章は、彼らの十七歳の出会いのときだ。第一章と第三章は女の視点で、また第二章は男の視点で描き分けられている。若くしてお互いに運命的な出会いと感じたのに、どうして別々の人生を歩まなければならなかったのか。世界的ベストセラーという帯の言葉に乗せられて手にしたのだが、読み通して大きな感慨を感じた。日本語訳の本でも同じ感動を得られたかも知れないが、英語の表現という細かなニュアンスを味わえたことは二重の喜びである。私は大学の二年生のとき、つきあう友達がなく、下宿でサン・テグジュペリの『星の王子様』の英語版を読んで、すでにこのような経験はあったのである。だが、老境にはそれなりの感慨があるものである。
 二年生も終わりの時期が近づき、私は友人の勧めに従って、生物学の阿戸田先生のお宅を訪れた。出身を聞かれて水戸の出だと告げると「水戸の人間はよく単位を落とす」と言われた。「もう一年頑張りなさい」「はい」ということで、夕食をご馳走になって帰った。家に帰って、父親にもう一年多く大学に通うことを告げたが、何と、お宅の息子さんは進級できました、という通知がきていた。最近、一橋大学の学長経験者である阿部謹也氏の『北の街にて』という本を読む機会があった。名古屋大学の中央図書館に阿部謹也全集が収まっている。彼は一橋大学の二年生のときに、上原専禄先生の三年生向けのゼミに出席の許可を求めて先生のお宅に伺ったのである。彼も夕食をご馳走になったとあるが、学問に対する熱意に関しては私とは雲泥の差である。上原専禄と言えば、戦後の一般教育の唱導者としてつとに知られている。
 留年の瀬戸際を乗り越え、せっかく三年生に進級できたのに、前期はほとんど授業に出ないでしまった。図書館で哲学書をあさったことや、ダーウィンの『種の起源』を読んだ記憶がある。『種の起源』はまったく退屈であった。最近、原著をほぼ読み終えたが、やはり退屈なのは否めない。生き物についての知識や専門用語をもっと熟知していればおそらく事態は違ったであろう。小説のような訳にはいかない。
 基礎をほとんど学んでいない私は四年生のときに誰も選ばなかった講座を選択した。それは植物生態学の講座であった。動物生態学の講座もあり、こちらは割と人気があった。植物分類学の講座も人気がなく、やはり専攻したのは一人だけだった。名古屋大学のように分類学や生態学の無い大学とは対照的であった。当時から、名古屋大学は分子生物学の本場として噂は聞いていた。大学院での植物分類学の授業は受講者が二名という贅沢な授業であったが内容はさっぱりで、私はいつも窓の外の木をいつも眺めていたりするのだった。レンガ造りの建物は木立に囲まれていて、ときにはリスが出没するのであった。
 私の所属した植物生態学の講座には、橘さんという修士課程二年目の女性がいた。その他に学生はいなかった。一人だけ居たには居たのだがドロップアウトしたということだった。この橘さんは博士課程に進めず研究生として長らく居座って自力で就職した女傑だった。彼女から多くのことを学んだ。何しろ私が大学院に進んでからも一度もセミナーは開かれなかったのだ。吉岡邦二先生には一度だけ会津磐梯山を案内していただいた。磐梯山には六年間通った。その間、先生には二つだけ質問した。質問にはきちんと応えて下さった。当時の質問も回答もよく覚えている。もっと勉強して質問をすればよかったとは思うが、これも一つの人生であった。しばしば橘さんと先生のお宅にお邪魔して、夕食をご馳走になった。先生には子供がおらず、客間にはこけしが数多く飾られていた。
 原稿を書き終えて、雪がちらつき凍てつく夜道を帰りながら、仙台での学生時代を想い起こすのであった。


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