新フィールドノート
−その104−
居酒屋における人間学
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三
今年は十一月の初旬にとても寒い日が続いた。そのまま冬になってしまうのかと思うほどであった。真冬なみの寒さであった。そう感じたのは、それまでの暖かさから急激に気温が下がったせいであろう。
やがて十一月の半ばになると、ソメイヨシノが紅葉し始めた。鏡ケ池のソメイヨシノの紅葉が、例年になく美しい。私が名古屋大学を去るという感傷のせいもあるのだろうか。毎日、昼食の前と後と一日二回見に行った。
ソメイヨシノの紅葉は、赤に黄が混じって、ハッとするほど映える。とくに陽の光を受けて反射するときには。工学部三号館のわきから遠目に眺めると、晴れている日は、桜並木が輝いて見える。あるとき曇っていたが、それでもその輝きは失われなかった。鏡ケ池の向かいには名古屋大学の附属高校があり、その間が桜並木になっているが、この並木道そのものは、それほど映えない。ソメイヨシノは寿命が短いと言われているように、枯れかかっているものも多く、輝きが感じられないのだ。
鏡ケ池の桜の葉はなかなか落葉せず、十二月の十日頃まで紅葉が見られた。その頃はケヤキやイチョウも色づき、名古屋大学キャンパス全体がとても華やいだ雰囲気に充たされる。
たまたま名鉄神宮前駅を利用したときがあった。駅から神宮境内とは反対側に神宮東公園という公園がある。神宮前駅からこの公園まで桜並木があり、そこでもソメイヨシノの紅葉が見られた。いつもの年と違ったのは、公園の縁をとりまくケヤキが黄褐色に輝いていたことだった。今年の紅葉は特別だったのだ。映画の世界に入り込んだような気分になる。写真を撮ってみたが、実際に体感したものとはどこか違う。人間の目はよく出来ていると感心する。
ところで話は遡るが、十月の初旬に観光ツアーの案内をした。日本のナラを見てまわる国際的なツアーである。ちょうど植生学会にかさなっていて、参加費も懇親会費も払い込んだあとだったが、大場秀章さんという東大総合研究博物館を退職したばかりの知り合いに頼まれて、断りきれなかった。どんぐりをつけるナラの樹木を見てまわるというのである。
予定の時刻にホテルに着くと、中部空港から着いたばかりの十人ほどの外国人がいた。マイクロバスで目的地に向かう。南山大学の近くで降りてアベマキの林を見てもらう。どんぐりが落ちていて、大喜びする人がいる。それから名古屋大学の構内を歩いた。豊田講堂の裏手を散策した後、博物館の野外観察園を案内した。体育館の裏にはいろいろなカシの木が植えてある。イチイガシも観察した。その後情報科学研究科棟の講義室で、私のつたない講義を行った。私の下手な英語に業を煮やした大場さんが解説をしてくれた。アベマキとクヌギの分布の違いと、神谷君が明らかにした両種の交雑帯について話した。日本のブナ科全体とすみわけの話は、理解してもらえたかどうか分からないが、喜んでもらえた。夜は新瑞橋の居酒屋で盛り上がった。喜んでもらえた。ベルギー、オランダ等々、国籍はまちまちだ。でも、みんな英語を話している。アメリカから来た夫婦の女性は日本人だった。
翌日は海上の森から猿投山をまわった。みんな熱心に植物を観察する。大場さんが学名を言う。ほぼ学名が通じる。感心した。後に名城公園に向かった。混んでいて駐車ができず、名古屋城を一回りした。期せずして、名古屋城の堀をまわり、バスの中から名古屋城の観光が出来た。バスの中で歓声があがった。名城公園にはキンモクセイが植えられていて、その香気が充満している。キンモクセイの学名がオスマンサスというのをそのとき知った。研究に関係のない植物の学名なんてすぐ忘れてしまうのだが、キンモクセイの学名は記憶に残った。その晩、金山の安い居酒屋を紹介したのだが、残念ながら有線放送がうるさかった。向かいのスコットランドのご夫人からチョコレートを貰った。私の左隣りの婦人は、熱心に話しかけてくる。いつのまにか私も英語で何かしゃべっていた。右隣のこのツアーを企画したドイツの見目麗しき女性からは、さまざまなグッズとナラに関する論文を編集した本の贈呈を受けた。別れ際、一人一人と握手した。感動的なひとときであった。私の一生の中でも充実した二日間だった。
スコットランドの女性から貰ったチョコレートの包み紙には宮殿や公園などの写真がたくさん載っていた。さすがに本場物という味がした。食べきれなかったので、岐阜県立看護大学の学生さんたちにお裾分けした。
看護大での受講生は二十人である。去年は十三人であった。たいへん贅沢な授業なのである。ただ、四年生が対象で、卒論を書きながらの受講なので彼らにとってはたいへんなのである。
看護大は新幹線の岐阜羽島駅から歩いて十五分ほどのところにある。田んぼを埋め立てたようなだだっぴろいキャンパスにこじんまりした校舎が建っている。樹は植えたものばかりだ。去年からこの植えた樹木の観察を授業に取り入れた。カツラの木が何本か植えてある。風によるストレスを受けて一部が枯れている。ストレスと撹乱に対する樹木の繁殖戦略というテーマのときは、このカツラの屋外観察が実に有効である。寒風の吹きすさぶ中、樹木もストレスに耐えているということが体感できるからである。カツラという樹は本来は山奥の谷間に生育するので、看護大のキャンパスに植えられた木は徐々に枯れて行く。その姿から風向きもわかる。
今年はクヌギやコナラのどんぐり拾いを取り入れた。十一月の下旬には、アラカシがまだ堅果を着けていた。ブナ科に関する授業はとうに済んでいたが。
つい先日から、いよいよ本の原稿を書き始めた。三日ほど根をつめたが、一向に進まない。文献をチェックしなければならないし、文章の流れの論理を考えなければならない。当たり前の話しだが、気づくのが遅かった。
私は何をしていたのだろう。最近とみに、自分は研究者として失格だったという思いにとらわれることがある。歳をとって老いてきたときに、自分を受け入れる必要がある、と精神医学の本には書いてあった。
研究の話はさておき、この歳になっても活字が面白い。マサイ族の第二夫人となった永松真紀という人の自伝。それよりも、インドネシアの女流作家アユ・ウタミの『サマン』。この中で、西洋中心主義的な男をあざ笑う女性が出て来る。
文学の世界ばかりでなく、自然科学の分野においても、西洋中心のものの見方が再考を迫られている。最近邦訳されたオッペンハイマーの『人類の足跡10万年全史』では、ヨーロッパで最初に文化や技術の進歩が始まったわけではなく、八万年以前にすでにアフリカでそれが始まっていたという。遺伝子と考古学の証拠から、アフリカから出た人類の祖先が五万年ほど前に二次的にヨーロッパに進出したという。
ダーウィンは南米のフェゴ島人の生活を最初見たときたいへん驚いたが、そのフェゴ島人がイギリスで、英語を話し宣教師として訓練されたのを目撃して、人類のあいだの類似性を信じたと言われている。だが、そのフェゴ島人がフェゴ島に戻ってからは生活ももとに戻ってしまってダーウィンはひどくがっかりしたということである。
かけはしの原稿を書き終えると、外は暗い。黄金色だったアベマキの葉も落ち始め、景色は冬枯れのそれに変貌している。しかし、それも暗くて見えない。
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