新フィールドノート
−その103−



小原村
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 十月一日、小雨の中を小原村に向かった。
 おととしの十一月二十日に行って以来である。
 八事から地下鉄赤池線に乗り、豊田まで出る。赤池からは名鉄豊田新線となり、電車は地上を走る。この名鉄沿線には愛知大学をはじめ、私学が多くある。午前十一時頃だったが、学生風の乗客が多い。豊田新線が開通した頃にはこの沿線には大学はまだ一つもなかった。
 豊田駅を降りて、バス停に行って驚いた。小原村行きのバスが無い。しばし茫然としていた。タクシーで行くほどの金銭的ゆとりはない。
 しばらくして気づいた。小原村の手前の木瀬で乗り換えになったことを。案内図に木瀬行きの路線があった。胸をなでおろした。おととしもバスを乗り継いで行ったことを思い出した。
 弁当を仕入れ、バスに乗る。名鉄バスが発車し、豊田駅の街中から郊外に出ると、やがて田園地帯を通過すると雨にかすんだ丘陵が目に入ってくる。猿投神社前を通過し、飯野の町を過ぎると、もう緑一色である。
 木瀬に着くと、そこから東濃バスに乗り換えである。小原村が豊田市に合併され、小原村までの直通バスが廃止されてしまった。東濃バスに乗り込むと、数人の乗客と運転手が話をしている。木瀬から先のバス路線から東濃バスが撤退するそうだ。車をもっていない小原村の人たちは将来どうなるのだろう。構造改革という名のもとの過疎地切り捨て政策の現状に直面したのであった。
 一九七九年に、小原村での調査で、村役場のある大草で旅館に泊まったことがある。かつてフィルドノートの第三回目に、そのことを記している。七月に一日中歩き通して、熱中症になり、宿で布団が濡れるほど汗をかいたのであった。
 小原村が豊田市に合併されたということは、支所は残されたかも知れないが、村役場はなくなったであろう。そうなるともう宿もないかも知れない。
 私は小原村における植生と花崗岩という地質との関連を三年にわたって調査し、論文としてまとめている。その後も小原村には別のテーマで近年まで毎年通った。今回の調査もその続きである。
 木瀬で乗り継いだ東濃バスを次の大平口で降りた。木瀬から大平口までたった一区間だが、歩くと相当な距離だ。雨はまだ降っている。
 バス停で川沿いに道を折れる。川の両側に護岸が施されている大平川は、幅五、六メートルの小さな川であるが、岩場では白い波しぶきをあげていて渓流の感がある。よく見ると、砂の堆積している部分と深い淵との違いが見てとれる。
 小原村に来るのは今年で最後のつもりである。定年だからというわけではない。ほぼ三十年近くも継続した研究なのだ。当初は五、六年もすれば決着が着くのではと考えていた。二種類のどんぐりを播いて生存率の差を見るのが目的だ。毎年秋に来て実生の生存個体の数を数えるという単純な仕事だ。妻が二度も心臓の手術をしたこともあり、労せずして論文を一つ稼ごうというのがねらいだった。ところが何と今年で二十八年目になる。
 さまざまな想いがよぎる中、川端にヒガンバナが咲いているのが目に映った。一列に並んでいるので人が植えたに違いない。桜並木の桜の葉はだいぶ散ってしまっているが、その下にヒガンバナが川の流れに沿うようにずっと連なって咲いていた。ヒガンバナは別名マンジュシャゲとも呼ばれているが、その華やかさは、まさにその名のとおり天の上に居るような心地になる。あの独特の真紅の花は、京劇の華やかさを連想させる。
 今年は九月に一時的に残暑の厳しさが戻ったが、長雨も続いて涼しい時期が続いたせいもあるのだろう、例年九月の中旬に咲くヒガンバナが十月に入ってもまだ開花の盛りとなっている。私の小原村での調査はいつも十月に入ってからなので、これまでヒガンバナを見たことがなかった。今年は十月に入ってもヒガンバナが咲いていて、その華やかな雰囲気に浸れたことは、小原村での最後の調査ということもあって、感慨深い思いにとらわれた。一瞬ふと、入院中の妻はまだ生きているだろうか、という思いにとらわれたが、どこまでもつづくかと思われるヒガンバナがとても華やいだ気分に戻してくれる。
 やがてヒガンバナも途絶え、そして目的地に到着する。花崗岩の風化した真砂を採掘した跡の裸地が目に入る。この裸地にアベマキとモンゴリナラのどんぐりを播き、どちらが長く生き残るかを見ようとしたのである。アベマキの方が早く消滅するという予想で、二ケ所のうち一ケ所は予想どおりの結果が得られた。二十五個のどんぐりから芽生えたアベマキの実生はすべて枯死したのである。それに対して、モンゴリナラはかなりの割合で生き残った。
 モンゴリナラと呼ばれていたものは、大陸のそれと同じかどうか疑問視されていたが、近年ようやく新しい学名がつけられた。和名もそれに応じて変わったが、ここではまだモンゴリナラと呼んでおこう。
 ところで、もう一ケ所ではどうなったかというと、モンゴリナラが多く生存している点では先ほどの場所のものと同様であるが、何とアベマキも二十五個体のうち二個体が生存しているのである。その二個体のアベマキは、背丈が十センチメートル以下で、どちらも小さな葉を二枚ずつ付けている。どんぐりを播いた翌年は、みなどんぐりに蓄えられた養分を使って六枚ほどの葉を付ける。年々小さくなり葉の数も減っていき、枯死するものも現れたが、何と二十八年経っても、二個体だけまだしぶとく生き延びている。こちらの場所は、風あたりが弱いのと、花崗岩の風化がやや進んでいるので、アベマキの消滅が遅れたものと推測しうる。
 どんぐりを野外に播く実験を始めてから十年以上経過した時点で中間報告というかたちで学会発表を行ったが、定年まで掛かってしまうとは誰が予想しただろうか。こんな予想をするのは実験を行う私だけかもしれないが。
 私が名古屋大学の助手に応募したときに、面接で将来の研究構想を尋ねられた。私はそのときに野外実験をやってみたいと答えた記憶がある。先輩の岩井川さんが、四年ほど前の定年一年前に名古屋大学を去ったが、彼が名古屋大学を去る直前に、野外実験はどうしたと詰問されてしまった。助手として赴任して間もなく、同僚の松原さんとどんぐりの発芽実験に手を染めて、野外実験はしばしお留守になった。その後、妻が心臓の手術をして重度の身体障害者になったこともあって、気長に結果の出る研究という軽い気持ちで始めたのが、小原村でのどんぐりの播種による生き残りの野外実験であった。まさか三十年近く掛かるとは思いもしなかった。これでは業績が少ないのも無理は無い、と我ながら思う。
 おととし来たとき、ちびたアベマキが二個体生き残っていた。二年後には絶滅しているだろうと予測していたが甘かった。アベマキも相当しぶといのである。
本当はあと二個体が枯死してアベマキが絶滅するまでの結果を出したかったのだが、やはり今年で終了することにした。イノシシが周辺を掻き荒らしている。これまでイノシシの影響がなかっただけでも大きな幸運と言わねばならない。
 これが最後という思いで、時間ぎりぎりまであちこち見て回った。
 帰り道、ヒガンバナにまた出会う。ヒガンバナに先ほどの華やかさが感じられない。バスの時間が迫っているせいかもしれない。


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