新フィールドノート
−その102−
下北半島・釜伏山
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三
八月十六日は、七十四年ぶりに最高気温を更新したという。多治見と熊谷で四十点九度を記録したのであった。
私はこの十六日は、東海道新幹線と東北新幹線を乗り継いで、名古屋から八戸までおよそ五時間近くも車中にいた。下北半島の釜伏山のミヤマナラ林とそれに続くブナ林の写真撮影に行くのだ。帰りの十九日まで名古屋の暑さとはおさらばだ。
七月三十日に全学教育の試験を終え、採点をし、成績の電子入力を行った。そして、ついに夏休みとなった。夏休みに入って、三日ほど調査に出かけた。その後、大学院の入学試験が八月の九・十日とあり、それから盆休みに入った。
あっという間に盆が過ぎ、十六日には下北へ出発である。八戸からは下北半島の付け根の野辺地まで特急の指定席券を予約した。もちろん東海道新幹線も東北新幹線も指定である。出発の前日にもかかわらず指定席券がやすやすと手に入ったのには驚いた。帰りの十九日にどれほど苦しむかはこのときは予想もしなかった。
野辺地からはJR大湊線で下北まで出る予定だ。下北の次が終点の大湊である。野辺地には午後の四時前には到着することになっているので、それから先のことは考えていなかった。ただ、一抹の不安はあった。下北から先のローカル線がどうも廃止されたようなのだ。
朝の九時過ぎにのぞみに乗る。朝の一時限目の授業と同じくらいの時刻に家を出なければならない。それでも八戸まで新幹線が通ったおかげで、その日のうちに宿に着ける。だからとても安心だ。まだ東北新幹線が通っていない頃には、妻の実家の青森に行くには寝台車を利用したものだ。
のぞみで名古屋から東京までおよそ一時間四十分。若い頃のように電車の中で読書をする気力はない。だから本は携帯しなかった。ただでさえ、重い荷物は堪えるのだ。十一時頃に東京駅で東北新幹線に乗り継ぐとき、駅のプラットホームに出たときやけに蒸し暑かった。でも、それが七十四年ぶりの猛暑であるとは、そのときは気づきようもなかった。いや、そうでなくても、駅のプラットホームは夏はいつも蒸し暑いものだ。
東北新幹線は最初は仙台までだった。それ以前は特急で四時間は掛かっただろうか。それがどうだ。今は東京から仙台までおよそ二時間で行ける。いや、東京-八戸の直通便「はやて」なら二時間をきる。学生時代に仙台から東京まで九時間もかけたことが嘘のようである。
東北新幹線・はやてに乗り込むと、三つ並んだ一番奥の窓際の座席に腰をおろす。指定席券は前もって容易に手に入ったとは言え、盆の時期はさすがに込んでいる。当日は指定席は満席だと言う。隣りの二つの座席には若い学生風の男が席を占める。私は早速缶ビールで一杯やり、握り飯で昼食をとる。あとは見慣れた景色をただぼんやりと夢のように眺める。大宮を過ぎると市街地が少なくなり、宇都宮あたりからは屋敷林が目立つ。福島県に入ると緑が目立つ。関東地方の平野部から東北地方の丘陵地に移り変わる。はやては郡山にも福島にも停まらない。郡山で磐越西線に乗り換えて会津磐梯山に通った頃を思い出した。うとうとしていると、やがて仙台に停まり、そのうちようやく盛岡に着く。盛岡を過ぎると、遠くの緑の山並みが見える。うとうとしかけて、景色もおぼろげになる。眠気さましにコーヒーを注文した。飲み終わらないうちに八戸に到着した。隣りの青年も一緒だった。
はやてを降り、エスカレーターで上ると、乗り継ぎの改札口だ。切符を取り出そうとしてズボンのポケットに手をやると、いつもあるべきところにあるはずの財布がない。一瞬、ある種の喪失感に襲われた。妻が死んだ後に味わうであろうような喪失感だ。これからの旅費の全額とカード類の入った財布がないのである。頭が真っ白なまま、乗客の整理をしている駅員に、財布のないことを訴えた。大勢の乗客が流れるように通り過ぎる中、駅員はなかなか事情を飲み込んでくれなかった。
私は財布がどうなったか見当がつかないので、擦られたのではという考えが一瞬浮かんだ。そういえば、隣りに座っていた青年の姿を見かけない。駅員がようやく事情を理解して、乗った車両に行くことになった。エスカレーターを降りようとしたとき、例の青年を見かけた。つい「これからどこへ行くのですか」と聞いてしまった。「青森までです」とその青年は答えた。私の財布を知りませんかと聞く間もなく、車掌にせかされてエスカレーターを降りた。
駅員に、何号車に乗っていたのかと聞かれたが、何号車だったのか思い出せない。切符を見れば分かるのだが、その切符は財布ごとない。駅員はかなりじれてきた。最近は、人の名前や文献がすぐに思い浮かばないことが多い。そのうち乗った車両を思い出すことができ、駅員とその車両に行く。財布は清掃のおばさんがすでに拾って車掌に渡した後だという。駅員が車掌のところに行って財布をもってきた。野辺地まで行く切符が入っていて、それは私の伝えた通りだが、念のために財布に入っていた名詞の名前と合っていることを確認した上で駅員は財布を渡してくれた。これまでにもいろんな経験をしてきたが、このときの嬉しさは、格別であった。さきほどまでの喪失感は消え、青森へ向かった青年を一瞬たりとも疑ったことを恥じた。
野辺地行きの特急はすでに出発してしまっていたが、駅員は親切にも下北まで直行する快速の乗り場まで案内してくれた。発車間際だった。たった二両の車両は混んでいて、およそ二時間ほど立ちっぱなしだった。
十七日、恐山行きのバスに乗り、冷水というバス停で降り、往復十五キロ以上歩いた。ずっと霧雨で、葉の採集はできたが写真を撮ることはできなかった。冷水のバス停に着くころには足が棒のようになり、もうフィールド・ワークもおしまいだという気持ちにとらわれた。
翌日、帰ろうと一時は考えたが思いとどまった。宿泊している田名部(たなぶ)の町では、十八日から三日間お祭りだという。だが、夜になるまでが長かった。宿にチェックインできるまで、町に二軒しかない喫茶店で粘るにも限度がある。
夜の八時から、おしまこ踊りという花笠をかぶった踊り手が町中を行進する。男も混じっているが、断然女性が多い。
青森のねぶたとは違って笛や太鼓に合わせて手を振りながら歩いていくだけだ。ねぶたでは踊る人をはねと(跳ね人)と言うほど飛び跳ねる激しさがある。田名部のおしまこ踊りには、ねぶた踊りで見られるような激しさはないが、踊りと一緒にスピーカーから流れる歌を聞いているとなんとなく懐かしさを感じさせるものがある。
下北半島の北西の先端に大間という町がある。そこは漁師町だ。そこで穫れる大間のマグロは有名だ。あまり高いので初日は敬遠したが二日目はお祭りだということで、五きれでおよそ二千円という大間のマグロを注文して食べた。値段ほどの違いはわからなかった。それよりこれまで苦手だったホヤが旨かった。ホヤの塩辛も酒と合う。
翌朝晴れたので釜伏山までタクシーで行った。いじけたブナと矮生のミヤマナラの写真を撮影して直ちに大湊駅に向かった。今日中に名古屋に帰るのである。大湊駅から釜伏山を見ると、釜伏山はすでに雲で覆われていた。
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