新フィールドノート
−その100−



「惑星ソラリス」
名古屋大学情報科学研究科 広木詔三


 昨年末は暖冬で、今年の桜の開花予想は名古屋で三月二十三日頃であった。ところが三月に入ってから寒い日の続くこと続くこと。名古屋大学キャンパスの北西部に位置している鏡ケ池わきのソメイヨシノは開花が予想よりも遅れ、実際に開花したのは三月も末であった。名古屋大学の入学式が四月五日に行われ、この日の桜の開花はほぼ五分咲きであった。
 なんと四月の十五日にいたっても、鏡ケ池の桜はまだ散りきらないでいる。
 ソメイヨシノはどういうわけか満開の頃には花弁が白っぽくてそれほど美しくはないのだが、花びらが散り初めるころには花弁が薄く桃色がかるようになって、樹幹をおおう花ぜんたいがピンクに染まり艶やかになる。
 私は今年度いっばいで定年である。これから先、そうながくはないかも知れない。そう思って、四月五日には休暇を取り、名鉄電車に乗って岡崎公園まで出かけた。
 茶店から岡崎城を取り囲む堀川の一部が見渡せる。堀川にかかる赤い欄干の上を人が行き交う。その周りを桜が薄く、紅く覆っている。景色の美しさに酔い、明るいうちから飲んだ酒に酔い、私は翌日も休んでしまった。
 話は変わるが、私の妻はまだ生きている。毎年秋から春にかけて、もうだめかという状態が長年つづいている。低気圧が通過するたびに具合が悪くなる。冬場の乾燥もこたえるらしく、今回は加湿器で何とかもちこたえた。妻が心臓の手術をしてから二十七年になる。
 結婚した当初は今池に近い春岡通りあたりに住んだ。大学まで自転車で十五分ほどでとても近い。一緒に生活して性格が合わないことがわかった。でも別れることはできなかった。妻は出産のために青森に帰った。その後も春、夏、正月と半年ぐらいは実家に帰っている。私は家に帰るのが夜の十一時から十二時になることが多かった。
 その頃、今はすでに退官している同僚の松原さんとどんぐりの研究を始めた。松原さんは微生物の代謝に関する実験屋であった。当時、三十代なかばで、世界の競争相手を打ち負かし、フンボルト財団にも招聘された人である。のほほんとしていた私は、どんぐりの発芽実験をするようになって、松原さんに鍛えられた。
 大学院時代に鍛えられていなかった私は、毎日研究に打ち込んだ。今になってわかった。子育てがどんなにたいへんなのかを。娘が生まれた次の春、公務員の宿舎に移った。四階の部屋である。妻が毎日いらいらして、憂鬱な日が続いた。二人の乳飲み子を抱えて、四階は辛かったと妻が言う。当時、私は家庭を顧みなかった。妻が心臓の手術をしたのは、それから間もなくであった。
 妻が手術をした数年後に、アンドレイ・タルコフスキー作の「惑星ソラリス」を見た。英米の映像と違って、タルコフスキー作品からは、たいへんゆったりとした時間の流れが感じられる。謎の惑星ソラリスには海があり、どうやらその海には知的生命体が存在するようなのである。ソラリスの上空から核兵器で爆撃するという意見に対して、それは倫理的にどうなのかという議論が延々とつづく。
 とても印象的だったのは、宇宙船の中での出来事だ。金属製の壁で囲まれた曲がった通路で、一人の女性が再生する。主人公の死んだ妻だった。どうやらソラリスの海は、宇宙船の搭乗者のもっとも深い記憶を再生するようなのだ。
 「惑星ソラリス」は失敗作だ、とタルコフスキー自身は言っている。でも、私は「惑星ソラリス」がたいへん好きだ。ただ、テレビのビデオでは真に迫るあの緊迫感は感じられない。原作者はポーランドのSF作家スタニスラム・レムで、邦訳の題は「ソラリスの陽のもとに」となっている。以前に文庫本で読んだときには、原作の良さが理解できなかった。今回、名古屋大学の中央図書館から世界SF全集を借りて読み返してみると、とても味わい深く感じた。再生した妻はどこからどこまで死んだ妻とそっくりなのであるが、主人公のケルビンは、自分が誰だか分からない再生した妻とはやはりしっくりいかない。原作は人間の愛情というものを暴きだしている。恐ろしくなったケルビンは妻をロケットに載せて宇宙空間に放り出してしまう。「惑星ソラリス」が原作に忠実なのはここまでだ。原作では妻は次の日には再生し、何事もなかったかのように振る舞う。最後には、ソラリスの海との了解が成立し、そして妻は消える。それを再現できないのが残念だ。
 「惑星ソラリス」はどこかの村の水辺から始まる。タルコフスキーの映画には水がつきものである。「惑星ソラリス」では、最後に地球に帰還する場面が出て来る。原作には書かれていない。懐かしい地球。あの懐かしい水辺。めでたしめでたし、と思っていた。ところが、手塚治虫の解説を読んで愕然とした。帰還したあの懐かしい村の水辺は、ソラリスの海の中の記憶だったのだ。レムが「惑星ソラリス」と全然違うと言って怒ったという理由も納得できた。「惑星ソラリス」は原作に忠実なようで、まったくタルコフスキーの独自の世界なのである。
 私は今でもときどき思い出す。私の妻が手術室からベッドに寝た状態で引き出されて来るときのことを。血の気がなく、死人のような感じで。私の頭から血の気が引くのとは反対に、妻の顔にはだんだんと赤みがさして生気がもどる。
 手術は午前中には終わりますよ、と告げられていた。午後の一時頃には、遅いなと感じてはいたが、病院の喫茶店に行ってお茶を飲んだりする余裕もあった。午後の三時になった。病院の控え室には人影も少なくなった。もう週刊誌の活字も目に入らなくなる。手術が終わったのは、夕方に近い午後の五時頃であった。
 一回目は僧坊弁を切開する手術であった。それが成功すると、今度は血液の流入が過剰になり、大動脈弁が堪えられなくなった。弁置換を勧められた。一回目の手術を決断するまでにどれだけ時間を費やしたか。主治医に説明を聞くことになった。妻は一生懸命聞いている。私は血を見るのが苦手なタイプだ。説明は上の空だ。主治医は私が生物学専攻だから体のつくりをよく知っていると思っている。それで余計詳しく説明したがっているようなのだ。でも私は樹木が対象で人間のことはよく知らない。主治医はこれまではブタの弁で弁の寿命が短かかった、それで今回はジュラルミンか何かの金属弁にすると言う。そして十年はもつでしょう、と言われた。
 二度目の手術は午後の三時頃までかかるでしょう、と言われた。夕方の五時頃には前回もだいぶ遅くまで掛かったことを思い出していた。点滴用のセットが付いたベッドに横たわった妻が、ベッドのまま手術室に入れられる。するとドアが閉まっておさらばする。この世の別れかという感じがした。それも二度も味わったのだった。
 二度目の手術は夜の九時頃に済んだ。例のごとく死人のような妻がベッドに横たわっている。手術は失敗だったのではないか。妻は死んだのではないかと不安が襲う。そのうち妻の顔に赤みがさしてくる。私がタルコフスキーの「惑星ソラリス」に感動したのはこのような体験を映画が再体験させてくれたからに違いない。その後ずっと妻の心臓からは二枚の金属が音を立てている。
 妻の心臓はペースメーカーで動いている。どういうわけかペースメーカーは妻の体内に埋め込まれている。ペースメーカーからの電線が血管を通じて心臓まで達して心臓に刺激を与えて人工的に動かしているのだ。
 ペースメーカーの手術のときである。術語の集中治療室で妻の心臓の脈拍が急に落ちて行くのがモニターに映っている。気の弱い私の心臓も止まりそうであった。私と同じくらいの若い医者が一時間ほど必死に処置して、妻の脈拍は正常に戻った。
 ペースメーカーを埋め込むときと、取り替えるときと、これまで二度の手術に立ち会ってきた。三度目は手術は無理と判断された。あとは電池の寿命を待つばかりである。


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